序文
「マリア様がみてる:福沢祐巳に対する評価」で、福沢祐巳が”全体の幸福を目指す者”である事を熱心に説いたが、それは決して祐巳1人の力で獲得した資質ではない。福沢祐巳はリリアン女学園高等部の長い歴史の中でも類い稀な(恐らく祐巳たちが”先代”と呼ぶ3人よりも)逸材だったと思うが、彼女がどこにいても”福沢祐巳”になれたのかというと、少し疑問が残る。福沢祐巳の公平性は平均的な女子高校生の獲得するレベルの物ではなく、まさにずば抜けた才能と呼んで良いものだと思うが、その才能を育んだ物、言い方を変えれば”その才能を摘まなかった物”について考えておく事は、フィクションではない世界で生きる我々にとっても、きっと有用な事だと思うのだ。
この一連の文書では「マリア様がみてる」の登場人物を取り巻く家庭や学校と言った社会環境に着目し、中でもリリアン女学園という独特な設計思想でデザインされた環境と、そのリリアンが目指す社会の全貌、そしてその要求に応えた小笠原祥子というサンプルに焦点を当てる事で、このテキストに内在する”幸福を形作る物”について考察してみたい。
例によってネタバレと独断と妄想で埋め尽くされている文章が延々続くので、どれか一つでも回避する必要がある人は注意深く読み進めて頂きたいと思う。