概論
社会には様々な抑圧が否応なくある。本当に?そう、それはもう、間違いなくある。けれどもそれは”否応なく”なのだろうか。子供に好きなように振舞わせていては身勝手な人間に育ってしまう。規則が無ければ学校は荒れる。軍隊が無ければ他国に侵略されてしまう。それは本当の事である。少なくとも、そうデザインされた社会では確かにそれは真実なのである。
今抑圧があるのは、社会が”抑圧を必要とするように”デザインされているからであり、リリアン女学園の生徒たちが抑圧から遠い所にあるのは”そうデザインされていない家庭の子供が、そうデザインされていない学園で”暮らしているからである。
私立リリアン女学園は架空の学校であり、フィクションであり、ファンタジーである。けれども優れたファンタジーがその構造自体に明確な理由を付与されて描かれるように、この架空の学校も”そうあるように”明確な意図を持ってデザインされている。そしてデザインに整合性があるのであれば、それを現実でも同じ様にデザインする事は可能な筈である。
リリアン女学園がいかにして”リリアン女学園である事”を維持しているのかを考察すると共に、フィクション・ノンフィクションを問わず、社会をデザインする為には何が必要なのかを考える。
各論
再設計される子羊たち
リリアン女学園に後から入ってきた人間が必ず受ける洗礼が”クラスメイトのお節介”である。二条乃梨子も細川可南子もクラスメイトの執拗な親切にげんなりしている様子が描かれている。
他校から受験で入ってきたというだけで、入学以来クラスメイトたちが何かと世話をやいてくれるので、その対抗策として読書を始めたのだが、これも効き目がなかったようだ。
【「チェリーブロッサム」:二条乃梨子】
そんな彼女たちが、他校から受験して入ってきた生徒達を放っておくわけがない。「一緒にお弁当を食べましょう」に始まり、「お祈りを覚えるお手伝いをして差し上げましょうか」だの「わからないことがあったら遠慮なく聞いてね」だのと何かと世話をやいてくる。
【「フレーム オブ マインド」:細川可南子】
リリアン上がりの微かな優越感がそうさせるのか、はたまたキリスト教の教えが骨の髄まで染み込んでいるのか、或いはその真似をしてみたいだけなのか。リリアン女学園では所在なさげに1人でいる事は許されず、そうする為には相当の事をしなければならない。二条乃梨子も細川可南子も結局陥落し、リリアン女学園でその牙城を最後まで崩さなかった人間は、作中で確認出来る限り1人もいない(注7)。例え当人がそう強く望んだとしても、セーフティネット自体が複雑に絡みあっている為に、一度どこかで糸が絡むと、そこから先は芋づる式に絡め取られてしまう。
当初クラス内で孤高を目指し、ひたすら勉学に勤しもうと考えていた二条乃梨子の前に藤堂志摩子が現れたのが運の尽き。藤堂志摩子には彼女を心配する生徒会の面々が居り、その中の一人小笠原祥子の親戚であり乃梨子と同じクラスの松平瞳子がそちら側に組み込まれたことでクラスの内外から完全に包囲されてしまう。気が付けば二条乃梨子は白薔薇のつぼみとして生徒会に、松平瞳子を呼び捨てにするただ1人の生徒として1年椿組に籍を置く事になった。
細川可南子の方は松平瞳子の”お世話”からすら逃れる事に成功していたのに、福沢祐巳に関わったのが運の尽き。編入生だった細川可南子が祐巳の事をよく知らなかったのは仕方が無いが、祐巳に接近するという事は投網漁師の前に素っ裸で飛び出すような物である。福沢祐巳には仲睦まじい弟の祐麒やその生徒会の仲間、更に直近の先輩で花寺学院の元生徒会長・柏木優が付いていて、その柏木優は祐巳の姉の小笠原祥子の従兄である。囮捜査にまんまと引っかかり、柏木優は電話で祐巳の身辺に気をつけるよう祥子に警告する。学園祭の日を迎えてみれば、祥子の姉である水野蓉子と祐巳を可愛がりまくった佐藤聖が細川夕子を拿捕して保健室まで連れて来る。現紅薔薇さまを従え、花寺学院の生徒会を思うままに動かし、小笠原家と柏木家と先代生徒会役員の寵愛を受けている福沢祐巳にちょっかいを出して一人で居られるわけがないのである。
そしてリリアン女学園のセーフティネットは連鎖するので、この包囲網に絡まった人間が別のシークエンスでは絡め取る側に回ったりもする。二条乃梨子と細川可南子が後に松平瞳子包囲網の強力な担い手になったのは周知の事実だが、特に二条乃梨子の変節ぶりは凄まじい。入学当初、この高等部独自の”スール制”の事を聞かされた時は
(頭、痛い……。何なんだ、この学校)
恐るべし、リリアン女学園。ただのお嬢さま学校だと思って侮っていたが、これはとんでもない場所に潜り込んでしまったかもしれない。
【「チェリーブロッサム」:83ページ】
なんて事を思っていたのに、約半年後には福沢祐巳と松平瞳子が姉妹にならない事に校内一腹を立て、更に入学からほぼ1年後、島津由乃の妹になった有馬菜々に対して「仲良くやっていこうね」だの「何でも聞いてね」だのと声を掛けているのだが、それは勿論入学当初に乃梨子がクラスメイトに掛けられていたであろう言葉と同じである。小・中と公立校で育った彼女を何がここまで変えてしまったのだろうか。
言語に規定される社会
社会集団を同定する最も重要な要素は”言語”である。少数部族が広範囲に点在する見ず知らずの土地でフィールドワークを行うとしたら、まずは使用している言語でどの社会集団の一員かを判断するだろう。同じ言語を話しているからと言って同じ部族だとは限らないが、違う言語を話していたら、まず間違いなく別の部族だと判断してよい。言語は人間社会集団のアイデンティティで最も重要なものである。
だからと言って、日本語を話せるアメリカ人が日本人かと言われればそれは”ノー”であるが、そのアメリカ人が生まれた時から日本で暮らし、日本語で育てられてきたとしたらどうだろう。ブロンドの髪に青い瞳を持って生まれたとしても、法律や戸籍上はともかく、文化的側面から見れば彼の事を”日本人”だと認識して差し支えないのではないだろうか。問題の焦点は”日本語を話せるか”ではなく、”日本語でデザインされたか”である。
言語の習得には臨界期という物があり、ある年齢まで言語に触れずにいると、その後どんなに頑張っても高度な話法が身に付かない。30歳から外国語を学んでそれに習熟する事は出来るが、言語自体は10歳くらいまでの内に習得しなければ、二度と身に付けられないのである(注8)。言語がただの道具ではなく、人間の成長過程に深く関わった”構造的な特性”でありながら、それを身につけるためには制限時間付きの教育が必要なものである事が分かっている。
また、言語は内面的な情動や論理を外部に伝達する”翻訳機”ではなく、その”内面的な情動や論理を組み立てる枠組み”の事である。何だか分からない非論理的な”人間の気持ち”を外部に伝えるのではなく、言語が人間の内面でもやもやした感情に名前を与え、比較、取捨選択出来るようにする事で”人間の気持ち”は組み上がって行くのである。言語が無ければ殆どの感情は意識される事すらなく無為なノイズとして打ち捨てられていく。他者とのコミュニケーションとしての機能よりも、自身の内部で抽象的に物事を把握・整理し、論理的思考をドライブさせ行動原理に昇華させる機能の方が重要なのだ。臨界期の存在が示すように、人間の脳は言語を習得する過程で、言語によってデザインされるのである(注9)。
そして言語体系というのは言語によって異なる。日本語と英語の違いは”林檎の事を日本語ではリンゴと言いますが、英語ではappleと言います”という説明で終わるものではなく、その内包された”社会的指向”の違いである。”どうも良い考えがないな”という日本語は”ある・ない”という動詞の否定形を持って構築されているが、アメリカで一般的に使われる文章は”I don't have any idea.”ではなく”I have no idea.”である。”I have no time.””Nobody has come.”等、動詞を否定形に持って行くのではなく、とりあえずそこは肯定形で言っておいて、別の部分で”ない”事を白状するのである(注10)。それは使う言語の違いという意味に留まらず、そういう言語体系でデザインされた脳の違いという意味である。どちらが良い悪いという話ではない。動詞を基本的に肯定形で語る言語体系でデザインされた人間と、そうでない人間の間には、使う言語の違いだけでは済まされない、思考体系そのものの違いが生じうるのではないか、という話である。
以前「コードギアスR2」というアニメで登場人物の一人が「日本人とは、民族とは何だ。 言語か、土地か、血の繋がりか」 と尋ねてそれに別の人物が「違うっ。それは、心だっ」と叫んでいたがその「心」は「言語」がデザインしたものであり、その言語体系は社会の特性が長い年月をかけて育んだ物である。そういう社会だからそういう言語体系になったのか、そういう言語体系でデザインされた人間が増えるからそういう社会になるのか。ニワトリが先か卵が先か、という話だが、それは循環的に影響を与え合い、強化されてきたのである。
リリアン女学園の言語体系
言語体系は社会の要請を反映して構築され、その言語体系はその社会に暮らす者の思考体系をデザインする。つまり、人間の思考体系は社会の要請を反映するという意味である。言語という媒介を通して社会の有り様が個人の思考体系に影響を与えるという事は、考えて見ればショッキングな事である。我々は自身が望むように自由に物を考えたり、行動したりする事は出来ない。その大元のOSは既に出来上がっており、それに無意識的に従うにしろ、反抗するにしろ、それを無視したり無かった事にしたりは出来ないのだから、根本的な部分では人間の思考も行動も、本人をデザインした言語体系の影響の支配下にあるのだ。
リリアン女学園で使用される言語は勿論日本語であるが、そこでは少しばかり標準的な日本語から外れたやりとりが交わされている。あいさつは基本的に”ごきげんよう”一語であり、クラスメイトや有名人など”相手の名前が分かっている場合”は、姓ではなく名の方を呼ぶ。同学年に対しては”**さん”、上級生には”**さま”、親しい下級生には”**ちゃん”だが第三者との会話では”**さん”と呼んだりもする。姉妹の関係を結んだ場合、姉は妹の事を”**”と呼び捨てにし、妹は姉の事を”お姉さま”と呼ぶ。個々に例外はあるが、その例外はプライベートな時間にのみ適用され、対外的にはその範を逸脱する事は忌避される。
この独特の言語体系に一日中晒されるリリアンの生徒達が被る影響はかなり大きいのではないだろうか。「ごきげんよう」という挨拶には最終巻「ハロー グッバイ」のあとがきでも触れられているが、通常の挨拶ではフォローしきれない様々な要素が内包されている。
「ごきげんよう」は「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「元気?」「さようなら」と、いろいろな意味に使える便利な言葉です。(中略)また、「ごきげんよう」は「ご機嫌よう」(『大辞林』によると「よう」は形容詞「よい」の連用形の音便、だそうです)で、「ご気分よく過ごされますように」と相手を気遣う意味が入っているところが、またいいなぁと思います。
【「ハローグッバイ」:あとがき】
その事を深く考える生徒は殆どいないと思うが、彼女たちは朝から晩まで会う人間会う人間を気遣っている訳だ。長くその挨拶を繰り返した末に彼女たちの思考体系がどういう影響を受けたかは推測の域を出ないが、リリアンの「迷える子羊の存在を許さない」体質の一翼を担っているのは、このさりげない挨拶なのではないかと思うのである。「ごきげんよう」という言葉が持つ「他者の幸福を気にかける」潜在的傾向と、姓ではなく極力相手の”名”を呼ぶ事で醸成される身内意識が、リリアン女学園という社会をデザインする上で欠かせない物になっていて、生徒達は知らず知らずの内にその言語によって思考体系をリデザインされて行っているのではないか。上級生に対して”さま”を付けるなど、現代日本においては特に奇妙な光景ではあるが、その事が生徒達の思考体系に影響を与える可能性は否定できない。敬語を使っていれば必ず相手を尊敬している、という証明にはならないし、使ってないから尊敬していないと断定する事も出来ない。だが、敬語を使い続ける事で自然に”年上を敬う”ように思考体系が再設計されていく可能性は随分高いと思うのである。
言葉は時代と共に変化し、世代間でも語法や単語に行き違いが生じたりする。それを”言語とは変質していくもの”と受け入れるのは簡単だし、逆にその事を何の根拠も無くただ”嘆かわしい”と弾劾する事もまた容易い。大切なのは”人間が言語によってでしか思考を構築できず、その回路は使用する言語の構造体系の影響を免れない”という事の意味を知った上で、言語の変質を許容するのか、或いは否定するのかを決めなければならない、という事である。その言語がデザインしようとする傾向を把握した上でなければ、いつまでも議論は好き嫌いの範疇から抜け出せない。”皆が思いやりを持った社会”にしたいと思えば、そういう言語体系を社会に採用する必要があり、”競争に特化した社会”にしたければ、その指向を持った言語体系で社会を運営していかなければならない。「ゆとり教育をやってみたけど学力が下がっちゃって、やっぱりもう少し勉強しなきゃダメだね」なんていうのはその辺を考慮せずに始めた弊害が目に見えた分かりやすいケースである。「こういう社会にしよう」と決めたのなら、その社会を受容する個人の思考体系からフィックスしていかなければどうしようもない。行政府だけが「勉強だけ出来てもしょうがない」と思っても、親や子供や教育現場の責任者が「勉強出来なきゃしょうがない」という思考体系のままでは、その方針が受容される事はないし、またそういう社会になるわけもない。”社会の要請”と”言語の構造”と”個人の思考体系”が近い部分で一致しなければ、望み通りの社会構造はデザイン出来ないのである。
人に会う時、別れる時に「ごきげんよう」と繰り返し、学年を問わず極力”姓”ではなく”名”で呼びかけ、年上に対しては必ず「さま」を付ける。リリアン女学園の言語体系は、おそらくリリアンの設計思想の要請に応えて構築された物であり、その先に見えるのはリリアンが考える幸福な社会の形である。他人を思いやり孤独を許さず目上の者を尊敬する。その事の是非をここで問題にしたいのではない。ただ、そういう社会にしようと思って、そういう言語が取り入れられている点に、目を瞠るのである。
まとめ
リリアン女学園がどういう社会を目指しているのか、ひいては生徒達に”どういう人間になって欲しいのか”がリリアンの言語体系に見て取れる。抑圧から疎遠な子供たちが、同じような境遇の子供たちと学び舎を共にし、拡大するセーフティネットの中で孤独から遠く、他者との関わりを長い年月に渡って積み重ねていく。最前線の教育や、高密度な授業内容がもたらされるわけではないし、全国区の運動部がある訳でもないが、親達はその事を許容している。そして、生徒達は朝から晩までリリアンの独特の言語体系で思考の枠組みを構築し、その枠組みで出力された結果に従ったり、反抗したりして行く。リリアン女学園では”社会の要請”と”言語の構造”と”個人の思考体系”が高い精度で組み上がっているのである。
他所から入ってきた二条乃梨子や細川可南子が1年も持たずに陥落したのも頷けるし、福沢祐巳が”全体の幸福を目指す”のも尤もである。リリアンの生徒は否応無く”そうデザインされた社会”の構成員として育てられ、そのデザインを是と思うか非と思うかは別にして、それを判断材料の基礎として行かざるを得ない。個人の価値観も社会の要請も使用される言語も、すべて他からの影響を受け、他の物に影響を与える。どこか1点だけをデザインしたのでは、そのデザインが社会や個人に浸透する事は難しい。望む方向がどこなのか、どんな社会にしたいのかを明確に意識し、それを実現する為に何が必要なのかを把握した上で全体を同時、かつ徹底的に運営しなければ、社会構造をデザインする事は出来ないのである。
リリアン女学園がその社会構造を維持、深化させる為に言語体系にまでそのデザインを浸透させている事は、我々が自身の暮らす社会の未来を考える際に看過出来ない事を示唆しているのではないだろうか。
- 注7
- 編入生ではないが、内藤笙子の実の姉である内藤克美がかろうじてその傾向を堅持した唯一の人間と言えるかも知れない。実際に彼女がクラス内外にどの程度の付き合いをしていたのかは描写されていないが、その克美も結局は卒業後に実の妹である笙子→笙子の親しい先輩の武嶋蔦子→武嶋蔦子をカメラ要員として重用していた鳥居江利子というセーフティネットの糸に絡め取られて陥落している。
- 注8
- ”二度と習得出来ない”というのは先に書いた様に高度な文法を組み立てられない、という意味であり、単純な文法であれば臨界期を過ぎた後でも習得可能である。
- 注9
- 母国語で思考体系をデザインする作業が完了する前に別の言語を同時に習得させる事が、論理的な思考の発達を阻害する可能性が指摘されてもいる。安易なバイリンガル指向はどちらの言語を使っても高度で論理的なロジックを構築する事を出来なくさせるだけでなく、内話の発達を阻害する為に精神的な安定にも影を落とす可能性がある。言語の習得は早い方が良いとされ、特に耳から入る音韻情報をネイティブ並に判別する能力に関しては実際その通りなのだが、それでも少なくとも抽象的な物の考え方が自由に出来る様になるまでは、母国語だけで脳の論理体系を構築させるのに専念させた方が危険が少ないと言える。
- 注10
- 「とりあえずイラクに侵攻してみたけど、やっぱり大量破壊兵器はなかった」というロジックを彷彿とさせる。また「妹を紹介すると約束したけど、そんな相手は居ない」という島津由乃の思考体系もこちらに近い。まず動詞を持って来て、目的語や修飾語はその後に考える文法は、由乃の行動パターンそのものである。アメリカに留学すれば人気者になる事間違いなしだろう。