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幸福のアーキテクチャ(4):羊から羊飼いへ

作成年月日
2009年05月11日 00:00

概論


リリアン女学園が母集団・社会構造・言語体系全てをもって学園を”あるフェイズ”に留めている事を見て来た。しかしこの中にあってスール制だけはその設計思想に牙を剥いている。中等部の生徒たちが憧れるこの制度は”何故か”高等部にのみ存在し、抑圧から遠ざけられた学園内で容赦なく生徒たちを苦しめ、蹂躙し続けて来たのである。

この章ではリリアン女学園の高等部にのみ”スール制”が存在する理由と、その制度に潜むリリアンの願いを考察する。

各論


降り積もる澱

高等部にのみ存在する”姉妹”という制度にはリリアンの社会構造の恩恵があまり寄与しない。顔見知りが広範囲に拡大する同学年間とは違い、他の学年との接点はせいぜい部活動に恃むしかないので、帰宅部の生徒や、上級生と下級生の数に著しい開きがあるようなクラブではあぶれる生徒が出て来る。実際リリアン女学園高等部では全生徒が姉妹の契りを結んでいる訳ではなく、各クラスに数名程度(注11)の一人身の生徒がいるようだ。

「そうか、祐巳さんもとうとう年貢の納め時かな。貴重な姉妹なしの仲間が一人減るのは惜しいけれど、ま、相手が祥子さまじゃ、落ちるの時間の問題かな?」

【「マリア様がみてる」:武嶋蔦子】

自分たち一年生は、陳列棚に並べられた商品のようなものだと思っていたから。比較的早めに買いあげられたことで、ほっと胸を撫で下ろしたわけだ。

【「イン ライブラリー」:白川寧子】

レギュラー陣姉妹の運命的な出会いとは対照的に、一般の生徒たちは割と適当に姉妹の契りを結ぶようである。高等部に入学してさほど日も経たない新1年生を妹にするのが普通らしいが、先に確認したようにリリアンのネットワークは”同学年間”においてのみ異常な発達を遂げるのであり、別の学年間での認知率は通常の学校より少しマシな程度だと思われる。いざ姉妹の契りを結ぼうと思ってもあてのある生徒はそう多くない筈で、大概は目の前に並んだ子羊の中から”良さそうな個体”を選んでいるのだろう。そんな状況下でもとりあえず妹は作らなければならないと思うのだから、”スール制”に潜む無言の強制力が如何に大きいのかが分かる。

この”強制力”の源は一体なんなのかと言うと、これは間違いなく”学校側”による物だと断じて良い。確かに”スール制”は遙か昔に生徒たちが勝手に始めた事が今まで受け継がれてきただけの、学校指導とは何の関係もない風習だが、その割には卒業式の送辞を任せる2年生は卒業生の中にお姉さまがいる生徒の方が良いのではないか、と言った議題が職員会議で公然と掛けられている。生徒たちが勝手にやっているという体裁を取りつつ、リリアン女学園高等部が”スール制”を公の行事の人選に条件の一つとして考慮するくらいリリアンの構造体系の一つとして認知、利用している事は明白だ。

しかしリリアン女学園はスールを作ることに対しては強制一歩手前の圧力を有するにも係らず、スールになってから先の事に関しては完全に無視を決め込む。一応”姉が妹を導く”という目的が前提になってはいるが、具体的に何をしろとか、こういう事はするなといった条文はない。登下校はなるべく一緒にするのか、昼食は別々でいいのか、休みの日にはどこかに出かけるべきなのか、試験前には勉強を見てやるべきなのか。規範となるようなガイドはどこにもなく、その結果思い悩んで相手に遠慮したり、逆に振り回してしまったりという事が度々起きるのだが、そうやって悶着が起きても、それが是か非かを示してくれる第三者機関を学校は設置していないので、二人でそれを解決しなければならない。離婚調停だって家庭裁判所が面倒を見てくれるというのに、姉妹の問題は”そもそもそれがいい事なのか悪い事なのか”という事から二人で相談して決めなくてはならないのだ。

【スール制の猛威に曝された福沢祐巳】

また”1対1”の関係下では責任を転嫁・分散できる第三者がいない為、ストレスやフラストレーションの全てが当事者達に降りかかり、セーフティネットを幾重にも張り巡らせて取りこぼしを防ごうにも、”姉妹”という関係は他に代替出来る物がないため、姉妹間で問題が起きたらそれを解決するか、さもなければ姉妹というコミュニティ自体を解散するしかない。生徒を抑圧から守るリリアン女学園が”スール”に関しては一切の救済機構を排除している為、このスール制は様々な軋轢を当事者たちにもたらす。記憶を掘り起こせば、福沢祐巳が雨の中泣き崩れる事になったのも、支倉令が呆然自失になって学園内を彷徨する羽目になったのも、白川寧子が卒業式の日にロザリオを投げつけらるような醜態を晒してしまったのも、全部スール制などという物がこの高等部にあったが為である。

そもそもリリアンの生徒は長いスパンで対人関係を築いてきたので、”最長でもたった2年”の内に大して良く知らない相手と親密な関係を一から築き上げる様には出来ていないのだ。今まで顔見知りだらけの同学年内でのびのびと育ってきた生徒にとって、スール制は唯一逃げようの無い厄介事を運んできてしまうセキュリティホールの様なものなのである。

幸福のアーキテクチャ

ならば何故、リリアン女学園はこの制度を野放しにしているのだろう。生徒たちが学園内で幸福に過ごす事を考えるならばスール制を禁止するべきである。そうすれば彼女たちは抑圧から遠ざけられた環境の中、身内同然の同級生達とクラス内外で穏やかな付き合いを続け、無事に3年間の高等部生活を終えるだろう。これこそ、リリアンの設計思想を完全な物にする方策なのではないだろうか。ところがそれでは困るのである。彼女たちはやがて学園を巣立ち、新たな社会にその身を置く事になる。そこはリリアンの設計思想とは別の方法論で設計されている為、リリアンのやり方が通用しない可能性が高く、もしそこで彼女たちが自身の幸福を設計出来ない様では、結局生徒たちを不幸にしてしまいかねない。だからこその「スール制」である。

スール制はリリアンの社会構造や設計思想に守られてきた生徒たちに、初めて自分自身で幸福を設計する事を要求する。抑圧が発生しやすいこの条件下では、相性抜群の相手に巡り会わない限り、相応の試行錯誤を乗り越えないと幸福な姉妹関係を作り上げられないので、「どうする事が自分たちにとって一番幸福なのか」を考えざるを得ない。それは構成人員がたった二人という慎ましやかな社会だが、それでも確かに”ある社会をデザインする”という作業である。ルールを決め、それに則って日々を送り、途中で問題があればその都度話し合いを行って軌道修正を図る。口で言うのは簡単だが、初めて誰かと恋愛関係になった時、或いは家庭を持った時、そこには次から次へと処理しなければならない問題が出て来て、互いの不満を解消する為に費やす作業の多さに辟易した経験が誰にでもあるのではないだろうか。年端も行かない彼女たちが揉めるのも当然である。だがそこで学校側が介入しては何の意味もない。例え校内のあちこちで修羅場が繰り広げられる事になろうとも、この課題は生徒自らの手で、リリアンの社会構造や設計思想の恩恵を被れない条件下でやり遂げてもらう必要があるのである。

互いの枷になる事を何よりも忌避しようとした佐藤聖・藤堂志摩子の姉妹や、あえてスールという関係を選択しなかった武嶋蔦子・内藤笙子のようなコンビもあれば、楽しく過ごす事を第一義に置いた鳥居江利子・支倉令、妹に主導権を明け渡した小笠原祥子・福沢祐巳、まるっきり上司と部下のような関係を突き詰めた築山三奈子・山口真美など、各組がそれぞれ自分たちにとって一番幸福だと思われる関係を構築してきた。藤堂志摩子と二条乃梨子の姉妹においてはプライベートでリリアンの言語体系をオミットし、妹が姉に対して「志摩子さん」と呼ぶという特殊なルールを採用している点からも、この幸福のデザインがリリアンの設計思想とは別の枠でゼロから構築されている事が見て取れる。

幸福を享受する側から、幸福をデザインする側へ。リリアン女学園はスール制を通して、子羊たちが羊飼いへの道を踏み出す事を期待しているのである。

自由の代償

この予行演習をリリアンの”抑圧を排斥した社会構造”の中で試す機会が得られるのは高等部が最後であり、リリアン大は名前と敷地こそリリアンに属しているが、そこは最早リリアン育ちが多数派を維持できず、リリアンの言語体系も使用されていない別社会である事が「パラソルをさして」内の会話で明かされている。

「聖さま……?ああ、佐藤さんのことか」

加東さんは、笑いながら髪をかき上げた。

「面白いわよね。リリアンの伝統。たまにね、彼女のことをロサ・ギ……何とかって呼ぶ人もいるわよ」

「ロサ・ギガンティア」

「そう。ロサ・ギガンティア!何あれ、一生そう呼ばれるの?」

【「パラソルをさして」:89ページ】

スール制がもたらす抑圧はまだ15〜7歳の生徒の手に余る可能性も高いのだが、今を逃しては予行演習どころか、ぶっつけ本番になってしまう。少々リスクは高いがなんとか高等部にいる内にこの課題をクリアして欲しいと、学校側は考えているのだが、それならどうして姉妹になれずにあぶれてしまう生徒を放置してしまうのだろう。この課題が全生徒の手に渡るように、学校側が義務化するなりなんなりすれば良いのにと思われるかも知れないが、それはある”逃げ道”を与えてしまうので出来ないのである。

実はこの課題は姉に課せられたものであり、妹は基本的にこの課題に関与しない。勿論当事者でもあり、自身の日々の生活が掛かっているのだから妹だからと言って何も考えなくても良いという訳ではなく、二人が幸福な日々を過ごす為の努力はたゆまず行うべきなのだが、姉妹に関する責任は全て姉が被る、という点で妹の段階ではこの試験を受けているとは言えないのである。スールになる・ならないの選択権は妹にもあるが、相手を指名出来るのは”姉”の方であり、解消出来るのも”姉”の方である。これは姉を優遇している訳ではなく、万一姉妹関係がこじれたり破局した場合に姉の側に全ての責任を負わせ、設計者としての自覚を促す為に他ならない。もしスールの契りが義務化の果てに行われてしまうと、何か悶着が起きた時に「妹なんて作りたくなかったけど、学校が作れって言うからしょうがなかったの」という逃げ道を、姉に与えてしまうのである。

それでもその姉妹関係が上手くいってなかったら、それは完全に姉の責任だと言われるだろうし、そう言われる様になっていなければ意味がないので、スール制はギリギリの所で”生徒の自主的な活動”という体裁を取っているのである。幸福を設計する苦労と重責を学んでもらう為には”姉側”に完全な選択権と自主性を与える事で逃げ道を塞ぐ必要があるのだ(注12)。

「妹の時期は無邪気でいい」とは卒業を間近に控えた支倉令の弁だが、スール制に潜む姉側の重圧に思いを馳せれば、このセリフはしみじみ納得出来る。完全な自由意志の元に自らが進んで選択した事なのだから、姉側はその責任の一切から逃れる事は許されないのである。

今までリリアンの社会構造に守られてきた生徒たちにとって、誰も頼みに出来ないこの課題は随分ハードルが高いが、誰かと幸福な関係を築き上げるという作業は、家庭や職場に入る時に必ず直面する。そこで失敗されるよりは今の内に失敗して貰った方が良い。度々引き合いに出して恐縮だが、幸福の設計という課題をこなせなかった白川寧子は、妹である林浅香・妹になれなかった伴真純につらい高校時代を過ごさせた責を負わなければならない。けれどもその失敗は、寧子がこの苦い思い出を教訓にして”次の機会”に生かせれば、決して無駄ではなかったと言えるだろう。林浅香も半真純も、もし自身が妹を持ったり、あるいは別の誰かと幸福をデザインしなければならなくなった時に、きっと同じ轍を踏まないようにしてくれる筈である。

まとめ


リリアン女学園高等部にのみ存在するスール制は時に過酷な結果を招く事もあるが、生徒たちを「幸福を享受する子供」から「幸福を与える大人」に変える為の大切な予行演習である。彼女たちが赴く未来にはリリアンの設計思想が通用しない社会も待っているだろうが、そこで慌ててその社会の設計思想に迎合する事が最善の方法だと、安易に思って欲しくは無いのだろう。幸福になる為の方法は個人個人で違い、相手があればそれによっても変化する。姉妹という関係下で”わたしたちはどうすれば幸福でいられるのだろう”という事を一度真剣に考え、実践させる事で、リリアンや他の社会の模範解答ではない、自分自身の幸福をデザインする機会を与える為に、高等部においてのみスール制は黙認、あるいはもしかすると奨励されているのである(注13)。

リリアンの望みは生徒たちの後々まで幸福であり、更には他の社会の幸福でもある。その為には彼女たち自身が、自らを幸福に出来る人間にならなければならず、また他者にも幸福をもたらす人間である事が望ましい。幸福な子羊を荒れ野に放りだしても待っているのは悲惨な末路である。それよりは羊飼いを野に放つ方が良い。優秀な羊飼いを野に放てば、その先で出会う羊たちも幸せになれる筈である。

注11
姉妹の契りを交わしている生徒がどの程度の割合でいるのかについては正確な記述が無かったが、武嶋蔦子の”貴重な”という発言から11月になった時点で1クラスに10人は残ってないのだろうと推測した。
注12
「黄薔薇革命」と呼ばれた島津由乃の「妹からのスール解消」事件は、姉に「だって向こうからやめたいって言ってきたんだからしょうがないでしょ」という逃げ道を与えかねず、リリアン女学園高等部スール制度の大前提と絶対条件を覆しかねないという意味でゴシップ的な盛り上がり以上に大変な事件であった。由乃に感化されてロザリオを返した生徒たちが元の鞘に戻らずじまいだったら、革命どころかテロ並みの被害である。
注13
初等部・中等部にはスール制がないが、高等部の生活に多大な憧れを抱く中等部では真っ先にスール制を真似するような事態が起きても不思議ではない。にも係らずそういう話が聞かれないのは、教師やシスター達がそういう行為を厳に禁じているのだろう。二人で特別な関係を結び、二人が幸福になれる道を模索するという点でスール制を”擬似恋愛”と捉える事も出来るし、確かにどちらか一方だけがその責任を負わされる、という点を除けばスール制と恋愛の間でかかる手間に違いは無い。そして中学生の恋愛は大抵うまく行かないという事を、大人たちは知っているのである。高校生だって難しいのに。
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