概論
前章の「幸福のアーキテクチャ(4):羊から羊飼いへ」においてスール制が果たす役割を見てきたが、作中でこの制度が最も有効に働いた生徒が福沢祐巳の姉である小笠原祥子である。一部読者からは不当な低評価に甘んじている祥子だが、リリアンの設計思想とスール制の効果の程を確かめるに当たり、これほど劇的に”羊飼いへの道を歩んだ”サンプルは他に見当たらない。
この章では、小笠原祥子が幸福論の設計という課題にどう対処し、挫折したのか。そして彼女を挫折に追いやった妹の福沢祐巳の幸福論を交えながら、高等部にスール制がある理由を具体的に検証していく。
各論
リリアンの肖像
家柄は申し分なく、気品も容姿も学力や芸事にも隙がない。それで居ながら常に研鑽を怠らない小笠原祥子は、ヒステリックに映る激しい自己主張も相まって周囲に気難しそうな印象を与えるが、彼女は基本的に”他者を気に掛ける”という点でリリアンの設計思想をその身に宿しているチャキチャキのリリアンっ子である。
寝ぼけていたとは言え、名前も知らない下級生のタイを直した行動にその片鱗を見る事も出来るが、由乃にロザリオを突き返されて校内を彷徨していた支倉令を引っ張って来たり、家が仏教である事に引け目を感じていた藤堂志摩子からその重荷を引きずり下ろそうと躍起になったりと、普段の印象とは裏腹に彼女は他者の幸福を気にしているのである。
ただ、どうしても一線引いて見えるのは彼女の家庭に原因があるのだろう。彼女の父親や祖父が外に愛人を囲っているという点が彼女の考える幸福の在り方に一点の影を落とすのである。外に愛人がいても彼らは妻や子や孫に対して最大限の愛情を注いでいて、祥子の晴れ姿を見る為なら結婚披露宴や仕事の予定を放り出しても駆けつける程である。正月2日に家から出て行く事以外は大して実害は無い様で、夫婦関係も円満だと思われる。しかしその円満さが彼女に一つの問いを突きつける。「誰かの幸福」は「全体」にとって本当に必要なのか、という問いである。
夫が他の女と関係を持っているという事を心から喜ぶ女性はそうそう居ないだろう。祥子の母の清子にしても夫が家を空ける事に対して不満はある筈で、その事を祥子も知っている。しかしそれでも小笠原家は「幸福」であり、自分もそんな父や祖父を愛している事に変わりは無いのだ。ならば、母の不満や、父の不義は家庭の幸福にとって問題ではないという事になる。誰かが少し位悲しい思いをしても全体としては上手く行っている。その事実が、小笠原祥子が他者と関係を結ぶ際にも無意識下で根を張り、結果的に彼女に他者に対する優先順位を一段下げさせるのである。
本来は他人の幸福を気に掛ける性格であるにも係らず、それが多少ないがしろにされても全体が幸福であるというケースで育った為に彼女はその矛盾に対して明確な回答を持ちえず、自身がどの程度他者を気に掛けるべきかを測りかねていたのだろう。いつしか彼女は考える事をやめ、その矛先を”自身の向上”という分かり易い目標に向けて来たのである。
福沢祐巳に会うまでは。
福沢祐巳の幸福論
福沢祐巳の本質については「マリア様がみてる:福沢祐巳に対する評価」から始まる一連の文書で考察したが、改めて言うまでもなく彼女の本質は「公平性」である。福沢祐巳は誰か一人が不当に損をする事を許さない。福沢祐巳の幸福論においては清子が幾ばくかの寂しさを抱えている以上、小笠原家のやり方はきっぱりと「NO」なのだ。
この幸福論を支えているのはこれもまた恐らく祐巳の育った家庭環境なのだろう。福沢祐巳は自身が幸福である為には父や母や弟が幸福である事が”絶対条件”であると思っていて、他の家族も同様の価値観を共有している事を知っている。他の家族が幸福である為には自分も幸福でなければならないという条件が付加され、その範囲を友人知人にまで同様の条件で拡大して行くと結局自分の幸福と他者の幸福は等価であるという結論に辿り付いてしまう。これが祐巳の公平性の正体である。
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- 自分(a)が幸福である為には直近の(b1〜b6)が幸福でなければならないという条件が最初にある。(図1)
- (b1〜b6)自身にもそれぞれ幸福でいてくれなければならない(c1〜c12)がいる。(図2)
- 今仮に(c10)が不幸な状態になったとする。(図3)
- (c10)が幸福である事が自身の幸福の条件の一部だった(b5,b6)が幸福でなくなる。(図4)
- (b5,b6)それぞれを幸福の条件としていた(b4,c8,c9,c11,c12)及び自分(a)が幸福でいられなくなる。(図5)
祥子が17年間胸に抱えていた矛盾を笑い飛ばすように、祐巳の幸福論には迷いがない。自分の幸福は他者の幸福無しには成し得ず、他者の幸福は自分の幸福無しには成立しない。全体の幸福は個人の幸福を要求するので誰かの犠牲で成り立つ幸福は虚構である。本人の資質がそう望み家庭とリリアンがそれを強化した結果、福沢祐巳にとっての幸福のデザインは何年も前から変わらず一枚の絵として完成しているのである。それが祥子にとっては新鮮だったのだろう。孤独を許さず他者の幸福を気に掛ける風潮はリリアン全校に行き渡っているが、それがこれ程の完成度を持ったまま制服を着て歩いているのを見るのは初めてだった筈である。
祥子は直感では誰かが犠牲になった上で全体の幸福が維持される事は無いと思っているのだが、現実にそれで幸福が維持されている状況を前にその答えに自信が持てないでいたのである。ところが福沢祐巳は「それはおかしいですよ」と言っている。実際には祐巳はそんな事を言わないのだが、彼女の一貫した行動原理とその結果が否応無くそれを突きつけるのである。「あぁ、やっぱりそれはおかしいんだよな」と納得する事で祥子は思考停止状態から抜け出す事が出来た。誰かの不幸は全体の幸福とは無縁なのか、という問いに対しての答えを祐巳が示してくれた事で、本来の”他者の幸福を気に掛ける性格”をナチュラルに表現出来るようになって行くのである。
また少し余談になるが、福沢祐巳の妹になった松平瞳子も”個人の幸福の価値”について思い悩んでいた一人である。「他人を不幸にしてまで自分が幸せになって良いのか」「誰かの為には自分が我慢するべきなのではないのか」。これらは瞳子が折りに触れて自問してきたテーマで、瞳子の直感は誰かが損をしなければ誰かが幸せになる事はないと思っていた。彼女が悩んでいたのは「誰が損をするべきか」という問いの答えであって、その前提に対しては疑問を持たなかったようだ。しかしその前提では「誰が損をするか」という条件を何パターン試してみても変数が違うだけで同じ解しか出てこないので、どれを取るか迷っていたのである。結局小笠原祥子も松平瞳子も「個人の幸福」と「他者の幸福」が衝突する渦中で思春期を迎え、それに対する確固たる答えを用意できずにあがいていた人種であった。しかしそこに現れた福沢祐巳が何の衒いも無く「他人と関係なく自分か、或いは他の誰かだけが幸福になれるなんて事はありえないんですよ」と信じているのを見て、あっと言う間に撃沈してしまったのである。
「小笠原家の幸福と母親の幸福」を秤にかけた環境に疑問を持っていた祥子も、「自分の幸福と父母の幸福」を秤にかけて思い悩んでいた瞳子も、「自分が幸福でいる為には他の人が幸福でなければならないのだから、それらを秤にかける意味が分からない」福沢祐巳の在り様を見る事がなければ、どういう結論に辿り付いていたか知れない。特に瞳子の方は崖っぷちギリギリだったので、福沢祐巳という羊飼いに巡り会えた事は僥倖だったといえる。
取り上げられた課題
福沢祐巳の幸福論を目の当たりにして小笠原祥子は確かに変革を迎えたのだが、それは諸手を上げて歓迎出来るような事態ではなかった。祥子は祐巳によって自身の澱を拭う事に成功し、これまでとは少し違う心持ちで前を向く事が出来るようになった。元々前「だけ」は向いていたというか、後ろを向けるような人間ではないのだが、その視界に映る他者の幸福を、しっかりと自身の幸福に関連付けられた事が大きい。自身の研鑽を怠らず、出来る限り切磋琢磨していさえすれば事態は良くなる筈だ、という思考回路が一新された訳である。
しかしこれは「本来のスール制」が要請する事態ではない。”妹”が姉の価値観を軌道修正し、長年刺さっていた棘を抜いてやり、姉妹の幸福な関係をデザイン・運営するというのは、幸福の責任を姉に負わせ、その課題に取り組む事でリリアンの設計思想におもねらない幸福をデザインさせる、という目的から逸脱している。誰かと幸福になる、という発想に乏しかった祥子は元々この課題に向いてはいなかったのだが、それでも妹にしたのが福沢祐巳でなければ、やがて自分なりの回答を導き出せたのかも知れない。しかしその機会は永久に失われてしまった。「パラソルをさして」で姉妹の関係を祐巳によって完成させられてしまったので、祥子は幸福をデザインするという試験を受けられなくなってしまったのである。
期せずして姉としての責任から逃れる事に成功してしまった祥子はその事を強く恥じたのだろう。本来なら自分がするべき事を妹に丸投げしてしまった格好である。しかもその妹のデザインは完璧で、今更修正するような部分も無いのだ。「意気込んで試験会場に乗り込んで問題用紙をめくったら、何故か回答も全部書いてあった」という感じだろうか。祥子が”プライドだけ高い”ただの俗物なら難癖つけて逆切れする事も出来たのだろうが、残念ながら彼女は物事を正しく評価する事も自分が劣っている事を認める事も出来る人物だったのである。
羊飼いへの道
ここから始まる小笠原祥子の「羊飼い修行」は凄まじい。祐巳の幸福論に乗っかって、祐巳に幸せにして貰っていると自覚しつつ、自分が貰った幸福の何パーセントかでも祐巳やその他の人間に返すチャンスを彼女は決して逃さない。
- 夏休みに祐巳を別荘に連れて行って自分のお気に入りの場所を案内したり
- その別荘地で祐巳がいじめられそうになると(負けるのが何より嫌いな性格の癖に)慌てて東京に帰ろうとしたり
- 不審な細川可南子が祐巳に無理難題を吹っかけるのを蹴散らしてみたり
- 花寺学院の学園祭で帰りが遅い祐巳の身を案じて生徒会長を使いっぱしりにさせたり
ざっと思い出せるだけでもこの献身ぶりである。そして祐巳が松平瞳子との確執で困るようになってからは、それこそなりふり構わず出来る事は何でもするのである。瞳子を妹にしたいという祐巳の希望を尊重し、新年会を開いて祐巳の痛手を癒そうとしたり、周りの人間に静観を強要しつつ自分は瞳子に新年会の招待状を出したり、事ある毎に一年椿組まで出向いて瞳子を挑発したりと、お姫さまと言われた栄光はそのままにやっている事は丁稚のそれである。
しかし、兎にも角にも小笠原祥子は変わった。本人はいつもいっぱいいっぱいで余裕が持てず、祐巳についていくだけで精一杯という様な事を「仮面のアクトレス」で支倉令に告白しているが、そこまで自己を卑下する必要もない。そもそも公平性にあぐらをかいて妹を持つという事から逃げていた祐巳の目を覚まさせたのは祥子である。この件が無ければ祐巳の目が瞳子に向かう事も無かったかも知れず、そうなったら祐巳の公平性が完全な物になる事も無かったかも知れない。本当に大事な所で締めるべき所を締めた祥子の功績はとても大きく、リリアンの設計思想を具現化した福沢祐巳の姉の名に恥じない人物だと評価していい。
ペイバック
第三者の目から見ても、そしておそらく妹である福沢祐巳の目から観ても小笠原祥子は姉としての務めを立派に果たしたが、いくら周りがそう思っても本人がまだ足りないと思っているのでは仕方ない。それほど祐巳が祥子に与えた物は大きかったのだろう。この姉妹の逆転現象を鮮烈に印象付けるシーンが「真夏の一ページ」の中にある。祐巳は男嫌いの祥子になんとか耐性をつけさせようと騙し討ちの様な計画を立てるのだが、直前になってその計画を反故にして、祥子にその計画を暴露してしまう。どうしてあと少し我慢できなかったのかと問う祥子に対して祐巳が答えるシーンから抜粋する。
「私としては、お姉さまにはご自分の意思で会っていただきたいんです。花寺の人たちと」
「私の意志?」
「ええ」
「変な画策なんてしなくても、お姉さまは遠からずご自分の力で克服なさるはずだから」
「え?」
【「真夏の一ページ」:93ページ】
祥子が驚くのも無理はない。この”騙し討ち”というのはリリアン女学園高等部生徒会の伝統行事で、相手の為になる事であれば躊躇せず実行して良いという暗黙の了解の元に度々行われてきた風物詩のような物である。祥子の男嫌いを治すためという、今回と同じ名目で行われた文化祭の主役騒動しかり、祥子自身が首謀者となった藤堂志摩子のカミングアウト計画しかり、他者の幸福を気にかけるリリアンの風土にあって、さらに一歩進んだ革新派が好んで使って来たやり方だったのだが、祐巳はそこを更に一段上がって、「本人の可能性を信じて成長を待つ」選択をしたのである。結果が良ければそれで良いというのは確かに真理だが、自分で克服する事はそれにも増して良いことだという事に異論はないだろう。
しかし、相手の可能性を信じて成長を待つ、なんていうのは本来姉が妹に対して考えるべき事である。
この時祥子は祐巳の度量の大きさに感心しつつも「私は一体どこまでこの子に甘えているのだろう」と戦慄した筈である。「遠からず」とは言っても卒業まであと8ヶ月、祥子が男嫌いを克服する瞬間を祐巳が見る事はないだろう。それでも祐巳は、長期的な視野に立って一番祥子の為になると思われる選択をした。祐巳の目は姉妹という枠を飛び越えて、姉妹で無くなった後の祥子の事まで見ているのである(注14)。自分の卒業後までも面倒を見て貰っていた事が判明するこの一連の会話は、祥子にとって衝撃だった筈だ。
この会話が直接の引き金になったのかは明かされなかったが、やがて祥子はリリアン大への進学を決意する。その選択に対して時折「妹離れしていない」とか「依存するのも大概にしろ」という意見を目にするがそれはとてつもない勘違いである。
祥子は借りを返すためにリリアンに残る事にしたのであって、決して祐巳に依存している訳ではない。本来自分がするべき幸福の設計を全て祐巳に丸投げしてしまい、あまつさえ姉妹関係が終わった後の事まで面倒を見て貰っているという事実を前にして、良くも悪くも借りは返さずにはいられない小笠原祥子が妹に幸せにして貰ったまま「じゃあ楽しかったわ」と祐巳の元を去るという選択肢はあり得ないのである。
途中でリタイアした遊園地は「キラキラまわる」できっちりリベンジを果たし、大泣きして送辞を読めなかった失態は、堂々たる答辞をもって帳消しにした。後残っているのは、”自分が祐巳を幸せにすること”だけで、それがまだ祐巳から貰った幸せに釣り合っていないと判断したので、小笠原祥子は「祐巳がいるリリアンに残る」事にしたのである。例えどんなに時間がかかっても、天秤が釣りあうまで祥子は祐巳の側に居て、春休みに一緒に旅行に行ったりしながら祐巳の事を見守り、果たせなかった(と本人は思っている)姉としての責任を全うすることを選んだのだ。支倉令の「感動した」
は、その道のりの大変さ(福沢祐巳は勝手に他人と自分を幸せにしていくので、気を抜けば負債は増える一方である)と、祥子の決意に対してのものである。
ついでにもう一つ弁護しておくと、松平瞳子が祐巳の妹になってやっとデレタイムが到来すると思っていた読者が、瞳子の出番を奪うかの様に祐巳に絡んでくる祥子に対して「空気を読め」とか「この老害」とか言うのを目にするのだが、それはもう仕様がないのだ。松平瞳子と福沢祐巳の関係は姉妹になる寸前に完成してしまい、もうする事は残ってないのである。姉妹として完成しているのは祥子と祐巳も同様なのだが、この姉妹間に違いがあるとすれば”祐巳に対して降伏しているかどうか”である。松平瞳子は祐巳に全面降伏しており、祥子の卒業を前にして「自分が祐巳に対して何か出来る事はないのだろうか」と思うものの藤堂志摩子に「何もしなくてもよい」と諭され、納得するしかない状態である。瞳子はそれで良い。祐巳から貰ったもの、これから貰う物はとても祐巳に返せないだろうし、祐巳もそれを望んでいない。祐巳の願いは瞳子の幸福であり、まさに「瞳子ちゃんが瞳子ちゃんであれば良い」のである。瞳子がそれを返せるのは祐巳に対してではなく、まだ見ぬ”瞳子の妹”に対してなのだろう。
しかし祥子の方は事情が違う。祥子は祐巳に対して”自分の方が劣っている”と認めているが、それは”降伏している”という事ではない。僅かながらでも自分に出来る事があると知っていて、それを日々積み重ねる事は可能なのである。それにもし自分が瞳子に遠慮して祐巳と距離を置いたら、その事を祐巳が快く思わない事を祥子は骨身に染みて知っている。祐巳が幸福でいるためには祥子が幸福でなければならないので、祥子は祐巳と楽しく遊園地に行ったり旅行に行ったりするのである。全員が幸福でなければ誰かが幸福になる事は絶対に無い、という福沢祐巳の幸福論を小笠原祥子が自分の血肉にしつつある事は、「キラキラまわる」で支倉令と仲違いしていた島津由乃に事情を聞くくだりからも充分見て取れる。昔ならいざ知らず、1年半祐巳と付き合ってきた祥子には”誰かの為を思って自分が犠牲になる”というロジックは残っていないのである。
姉としてこなす筈だった課題を自主的に持ち帰って粛々とこなす事にした祥子には、これからも苦難の道のりが予想される。福沢祐巳はこの時点で完全体になっているのでそれを自らの手で幸せにするのは相当難しい。先に述べたように、気を抜けばあっという間に貰う方が多くなってしまう。しかし、もしかすると小笠原祥子は天秤が永久に釣り合わなくても構わない思っているのかも知れない。収支で言えば負債だが、それは紛れも無く幸福の糧であり、優秀な羊飼いへの道を踏み出した彼女がそれを他の者に分け与える事が出来るのは、彼女がこの一年半で証明した通り疑い様もない事実なのである
まとめ
小笠原祥子は努力の人である。家柄やその身に宿った天分を無視すれば、精神的な本質は気品のある小市民と形容するのが一番近い。自動幸福製造装置のような福沢祐巳を妹に持ってしまってそれでも姉としての務めを何とか果たそうとした彼女が感じていたプレッシャーは相当な物だった筈である。直線的な思考方法と自分を基準にする事しか出来ない融通の利かなさも相まって”誰かと幸福になる”課題に対して最も不利だった祥子が、スール制を通して自身の汎用性を急速に拡大した結果は、リリアン女学園の中にあって最も成功した部類に含まれるだろう。
他の生徒会メンバーは皆「最初から自分にフィットする相手」を姉妹に選んでいるのに、小笠原祥子だけが多大な努力を払わなければならない相手と姉妹の縁を結んでしまった事は興味深い。皆が皆小笠原祥子の妹として福沢祐巳はうってつけだと太鼓判を押していたが、それは祥子が自身の足りない部分を潔く認め、それを祐巳の力を借りて克服しようとするならば、という条件付きでの太鼓判である。祥子の歩み寄りと成長がなければこの姉妹の相性は決して良い方とは言えなかった筈で、例えそれを促したのが福沢祐巳の力だったとしても、祥子の努力が過小評価されるべきではない。その努力こそ、スール制が姉に要請するものであり、本人の評価は別として小笠原祥子は間違いなくこの課題をこなしたと言っていい。
生まれた時から一緒に暮らしている相手を妹にした支倉令は言うに及ばず、ファーストコンタクトでお互い一目惚れしたような白薔薇姉妹2組や本質的に自分を求めざるを得ない松平瞳子を妹に迎えた福沢祐巳、恐ろしく空気を読める妹を持った島津由乃等に較べて、祥子が選んだ相手は2年次の11月になるまで顔も名前も知らず、しかも相手は本質的に自分を必要としていない上、後にリリアン史上最高の紅薔薇と称される事になる(妄想)生徒だったのだから、幸福のデザインという課題の中でも最高難度を誇る問題用紙を渡されたも同然である。さすがに不公平なので問題を取り替えてくれませんか、と直訴して良いレベルなのに、文句も言わずその問題に取り組んだだけでも表彰状を貰ってよいくらいだ。
リリアンの設計思想を最も高い純度で体現している福沢祐巳に対して、小笠原祥子は”リリアンがスール制を通して期待する要求に最も高く応えた生徒”であると言える。そう考えればこの二人は、確かにお似合いの姉妹である。
- 注14
- 祐巳のこの発言は、生徒の卒業後の幸福まで視野に入れるリリアンの体質と見事に一致する。