終わりに寄せて
個人が社会と決別する事は難しい。我々は誰かの子供として生まれ、誰かが作った食べ物を食べたり、誰かが作った薬で病気の症状を抑えなければあっと言う間に死んでしまう。生物的な部分を全て代替出来る様になったとしても、言語を始め連綿と受け継がれてきた文化を身に付ける為には社会の中に身を置くしかなく、それすら拒絶したとしても、自分が一体何者なのかという問いに答える為にはどこかで自分以外の人間を目にしなければならない。それら全てを拒否するのなら、そこに居るのは人間ではなく、ひとりの人類である。
しかしながら、社会と関わりを持ちながらでも、社会からの影響を拒否する事は出来る筈だと、実はつい最近まで考えていた。例え社会がどのような物になろうとも、自分の在り様は自分で決定・維持出来るのだと信じ、それを変節しようとする社会的圧力や風潮からは断固として自分を守り通そうと身構えていたのである。現に「政治家を綯う物」の中で”政治家は国民の支持を得なければやっていけないので国民が望む事しか出来ない。国民に品の無い人間が多ければ政治も品の無い物にしかならないし、品のある人間が多ければどんな馬鹿を選んでも品のある行為しか出来ないのだ”と書いた。約2年前の話である。けれど今はその論理には欠陥があるな、と考えている。人間は社会からの影響を受け、その枠組みで思考をデザインして行くので”品の無い社会が品の無い人間を育て、増やす可能性”がある以上、現在の国民の品性がどうであろうと社会をデザインする者が描こうとしている絵は慎重に審査しなければならないと思っているのである。
社会が人間を育て、そこで育った人間がまた、自身の特性を社会に還元する。一度転がりだした偏向が世代を経る毎に社会ぐるみで強化されていくのであれば、社会という物を”個人の入れ物”と見なすのは危険である。それは結果的に存在する集合体ではなく、その構成因子に影響を与える装置なのだから、メンテナンスに幾ら労力をかけても、やり過ぎという事は無い。
そう思い到った時、なぜ福沢祐巳が”全体の幸福を目指すのか”が少し分かった気がした事が、今回の一連の文書を記すきっかけになった。何故彼女が全体の幸福を気にかけるのかと言えば、それは全体(社会)が幸福でなければ個人が幸福へと到る道が閉ざされる事を知っているからであり、何故彼女が全体の幸福を気にかけるようになったのかと言えば、彼女を取り巻く社会が、彼女の持つ特性を強化したからである。リリアン女学園は架空の学園で、福沢祐巳も架空の人物である。しかし例えフィクションの中の出来事だったとしても、社会が幸福を目的としてデザインされ、そのデザインを受けた個人がその要請を反映していく様は、見ていてとても美しい。全ての人間が一つのコンセンサスを共有する事は永遠に無いだろうが、社会の中で濫立する様々なデザインを手がけた人間とそれを享受する人間は、自分たちが何によって、どういう方向にカスタマイズされているのかという自覚を持ってその社会構造の中に身を置くべきである。
「マリア様がみてる」は登場人物たちの学園生活を描くだけに留まらず、彼女たちが暮らすこの楽園が誰の手によって、どういう願いを持って作られたのかをも描き出した。その設計思想に賛同するか反対するかは別として、我々は目的をもって社会をデザインする重要性をこのテキストから読み取り、現実の社会に反映させる事が出来る筈だ。
この場所は楽園では無いかも知れないが、慎重に検討を重ねれば、それに近い物は出来る筈だと信じたいのである。