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幸福のアーキテクチャ(2):ユグドラシルの樹

作成年月日
2009年05月09日 00:00

概論


この章ではリリアン女学園に顕著な、集団の安定制について考察したいと思う。幼稚舎から大学まで最大18年に及ぶ一貫教育が生徒達に与える影響をサンプルと照らし合わせながら考察し、この学園に張り巡らされた”生徒を取りこぼさない為の構造体系”から学ぶべき点をピックアップする。

各論


顔見知りだらけの新学期

リリアン女学園高等部では「初めて同じクラスになった」という事が1つのニュースとして語られる。福沢祐巳は武嶋蔦子と高等部1年次に、島津由乃とは2年次に(ちなみに幼稚舎から通算十三年目にして)初めて同じクラスになった。祐巳の学年は約250人。幼稚舎からずっと人数が変わらなかったとすると、計算を簡単にする為に学年生徒数を41*6=246人として設定しても、13年間1度も同じクラスにならない生徒の出現確率は約9.8%。人数にして約24人である。(注2)逆の言い方をすれば全246人中222人は一度以上同じクラスで過ごした相手なのだ。

【祐巳を知らなかった”希少”な生徒たち】

なんという村社会。あの子もこの子も幼馴染同然である。勿論実際は転入出や、中等部・高等部の1年次に2〜30人程度の受験編入生が入ってくるので(注3)もう少し隙間が出来るのだが、それにしても驚異的な顔見知り率である。第一巻で小笠原祥子に目を付けられた福沢祐巳を一目見ようと教室に押しかけて来た挙句、どれが福沢祐巳か分からなかった生徒たちというのは余程祐巳と縁が無かったか、縁があっても祐巳が目立たなかった為にその存在を忘れた連中だったのだろう。穿った見方をすればそれ位”名前を聞いてそれが誰だか分からない生徒”が珍しかったのかも知れない。「福沢祐巳?誰それ、知らない!」という連中だけがそれを確認しに来た訳で、教室に来なかったのは確かめる必要が無かった連中だと考えれば、やはり大した物である。(注4

一般的な学区制では小学校から中学校にかけて緩やかに、中学から高校に上がる時に大幅にコミュニティの人員が入れ替わり、その都度顔見知りのパーセンテージは減っていく。しかもその中で1〜2回のクラス替えが起こるので長い付き合いを持続出来る相手はそう多くはならない。ごく親しくなった相手ならともかく、それ以下の付き合いではクラス替えと共に交流が消滅するのが普通なのだが、このリリアン女学園ではそれは当て嵌まらず、クラスが分かれてもまた何度も同じクラスになる可能性が巡って来るのである。この現象は生徒達に多大な影響を与える事になる。

偽らざる顔

新しい学校、新しいクラス、初めての自己紹介。新たな環境で自己を演出し、なるべく好評価を得て人間関係を円滑にしたいと思うのは人の常である。何事も最初が大事、それは確かにそうなのだがリリアン女学園ではそれが段々どうでも良くなってくる。年を経れば経るほど、クラスの中に知った人間の顔が増えて行くのだ。今更何を取り繕う必要も無い、取り繕った所で不審に思われるのがオチである(注5)。環境が変わったのを機に新しい自分を演出するのだ、という目論みは水野蓉子が他大学に進学してやろうとしてすぐに挫折した事だが、それも無理は無い。中学から編入してきた蓉子ですら6年間のリリアン暮らしでそういう機会に疎くなってしまったのだから、島津由乃が頭を抱えるまでもなく、チャキチャキのリリアンっ子である福沢祐巳の自己紹介が毎度冴えないのもしょうがないのだ。リリアンでは鮮烈な自己紹介で第一印象を良くしようという魂胆の出番はそう多くないのである。

【祐巳の冴えない自己紹介に頭を抱える島津由乃】

第一印象の操作という重圧から開放されると共に、他者との関係も長期化を前提に進められる事になる。もう何度も一緒のクラスになった相手も相当数居る上に、今初めて会った人間ともこの先何度も同じクラスになる可能性があるので急ぐ必要はない。自分の事はゆっくり知って貰えば良く、相手の事もゆっくり知っていけば良い。重要なのは第一印象ではなく、積み重ねる事である。

小笠原祥子の代が卒業式を迎える「ハロー グッバイ」において、卒業生のクラスに出向いて花をつける係を射止めた6人全員が、祐巳にその係を譲渡するために争奪戦に参加した事が明かされるシーンは最終巻を飾るに相応しいシーンだが、薔薇の館に通い詰めでクラス内では大して目立つ活躍をしてこなかった祐巳がこれだけの友愛を獲得し得たのはこの1年だけが評価されたからではないだろう。クラスメイトたちの7〜8割は祐巳の13年間の営みの断片を知っているのである。去年か、或いは一昨年か、中等部の時かも知れないし、親しく言葉を交わした間柄だったのなら初等部や幼稚舎の時の記憶を持つ可能性もある。自身のアルバムの中に時折顔を出したり消えたりした福沢祐巳の事を長いスパンで回想し、彼女がその役を譲られるに値する人間だと確信した上での”譲渡”である。

人員の流動性が高いコミュニティでは10年前の自分を知っている人間を探すのは難しい。もしそんな人間がいるなら、それは高確率で随分仲のいい相手だったりするものだが、リリアン女学園においては、大して交流があるわけでもなく、互いの家がどこにあるのかも知らない様な相手が、子供の頃の自分を知っているというケースがままあるのである。

また、このシステムは”仲がこじれた相手とその後何年にも渡り付き合いが続く可能性がある”という点で、相当の慎重さを各人に要求するのだが、それと共にやり直しの機会も豊富に提供する。幼稚舎時代に最悪の印象を与え合った鳥居江利子と佐藤聖が、中等部で再びクラスを同じくしてその関係を改善出来たように、自身を大仰にアピールする負担や、環境の変化によるストレスを軽減させながら、過去にも未来にも人物を再評価する機会という名の枝を伸ばすのである。

セーフティネットの拡大

リリアン女学園では顔見知りの多さがクラス内に留まらず学年全体に波及する為、クラスメイトとそれ以外の生徒に対する意識の差は総じて低い。クラスメイトは「今年1年付き合う面子」に過ぎず、他のクラスの生徒は「以前付き合った面子」か「この先付き合う事になるかも知れない面子」である。一部読者から”並薔薇様”と称される一般生徒代表・苗字不詳の桂さんは、1年次こそ福沢祐巳と同じクラスだったものの、2年次には別のクラスになってしまい主人公との接点が無くなって出番がなくなるかと思われたが、そうはならなかった。これまでも何度も祐巳と同じクラスになったり別のクラスになったりしているのだろう、クラスが別れた程度では二人の関係性に全く変化は起きず、最終巻の「ハロー グッバイ」でも祐巳に悩みを打ち明けて相談に乗って貰ったりしているのである。

この関係性は非常に重要な機能を担う。通常の学校ではクラスで上手くやれなかったらもうその1年間は絶望するしか無い様な有様になってしまうが、リリアン育ちの生徒は例えクラスで仲のいい友達が出来なくても、外に幾らでも友人が居る。ここがダメでも他の選択肢がある、というのは大事な事である。将棋で言う”詰み”の状態を起きにくくする事は社会を安定化させる為に必要な処置であり、それがリリアン女学園の様な一見閉鎖的な環境で機能しているという事に驚かされる。メンバーが流動的なコミュニティは全体としての選択肢は人員を交換する事により増えるのだが、その中に身を置く人間にとってはそれが抑圧となって、選択肢が狭まってしまう。そこで上手くやれなければコミュニティを出て行くしかない、という状況下では個人の安定性は望めない。コミュニティの中に数パターンのサブコミュニティを用意して、個々のサブコミュニティに依存せずに済むようにする事で個人の安定性を増せば、それがコミュニティ全体の安定にも繋がっていく。

先にリリアン女学園の事をなんという村社会。と書いたが、単一地域というソートパターンが決定的なパワーを持つ村落とは違い、クラスメイトとそれ以外の生徒、さらに部活や後述の高等部独自のスール制などを交えたリリアン女学園は、生徒達に様々なセーフティネットを提供し、生徒達が取りこぼされてしまうのを防いでいる。”村八分”などという蛮行を、モラルではなくシステムが許さないのである。

そこの所を念頭に置いてみると、リリアン女学園の生徒にしては割と破天荒な少女、立浪繭と準レギュラー田沼ちさとの会話は興味深い。「フレーム オブ マインド」に登場した立浪繭は、他人のお姉さまにちょっかいを出してはそこの姉妹を破局させるという、物語冒頭から「最低」と罵られるような生徒である。その修羅場にたまたま居合わせた田沼ちさとが、やはり繭の事を「最低」と言いつつも落とした髪留めを一緒に探してもらうシーンにリリアン女学園のセーフティネットの堅牢さが見てとれる。

他人の姉妹関係を破局させるというのはリリアン女学園高等部ではかなり”破廉恥”な行為で、それを次から次へとやってしまう立浪繭はあちこちに敵を作っている状況なのだが本人はケロリとしている。立浪繭の図太さがそうさせるのだが、そこに登場した出席番号1番違いで何かと会話を交わす機会の多かった田沼ちさとが平然と「繭さんって最低」と感想を漏らす部分は、田沼ちさとが図太いという説明は当て嵌まらない。いくらもうすぐ3学期が終わるとは言え、明日からも顔を合わせるクラスメイトに面と向かって「最低」と告げるのは本来中々勇気の要る事である。立浪繭は現在あちこちで評価を下げている訳だから、彼女を叩く側に回るのは賢いととる事も出来るが、その割にはそのまま繭と仲良く髪留め探しなどを始めるのである。

【意外と豪胆な田沼ちさと】

田沼ちさとがフランク過ぎると納得しても良いが、他人の姉妹関係を平然と壊し続ける立浪繭ともどもこの両名には”特定派閥からの不評を恐れていない”という似た空気が流れている。田沼ちさとは立浪繭に「最低」と告げて、その事で繭から絶交されても痛くも痒くもないし、逆に繭と行動を共にしている今の状況を誰かに見られて「立浪繭と仲がいい」という理由でどこかから敵対視されたとしても、やはり痛くも痒くもないのである。単一コミュニティに依存せずに済むリリアン女学園のセーフティネットが働いている為に、二人とも一部からの不評など安心して買えてしまうのだ。

松平瞳子が次期生徒会役員選挙に立候補して落選した時、周りから総スカンを食っていたにも関わらず、その総スカンをしていた側から瞳子を擁護する意見が出たのも頷ける。クラスの趨勢と逆の意見を発言して対立する事は、クラスの内外を問わず友人がいるリリアンの生徒にとってはさほどハードルの高い事ではなく、また、その発言が引き出される事で、それが誰かにとってのセーフティネットとして働く事にもなる。まさに今、田沼ちさとが立浪繭のセーフティネットとして機能し、繭が取りこぼされるのを防いでいる様に、リリアンのセーフティネットは連鎖しながら拡大していくのである。(注6

まとめ


リリアン女学園の低い流動性が対人関係において垂直方向(時間軸)にも水平方向に抑圧を軽減させる方向に伸張している事が見て取れると思う。垂直方向の伸張は自分や他人に再評価の機会と材料を与え、水平方向の伸張は学年全体の既知から来る安心感と、複数パターンのネットワークを許す救助網を与える。垂直方向は長く伸びた幹や枝であり、水平方向のそれは、さながら生い茂る葉のようだ。前章で言及した”強迫観念や抑圧から遠い家庭を持つ生徒達”が集うこのリリアン女学園が、さらに対人関係において発生し易いストレスや行き詰まりを軽減するようデザインされているのだから、その取りこぼしの少なさは推して知るべし、と言って良い。

短期間で効率よく結果を出すためには、人員の整理やコンセンサスの統一は重要である。役に立つ人間を最小限集めて、皆が1つの目標に向かって努力する事が一番採算の摂れるやり方であろう。コントロールする側からすれば、個人の選択の余地を削ぎ、全員が1つの立場を標榜せざるを得ない状況こそが言論統制を容易にする手段である。結果を出せなければクビ、逆らう人間は収容所行き。こういうやり方は一部の企業や国家で今でも大流行りである。現代日本ですら村八分が正当かどうかが裁判で争われたりする。

だからと言って効率重視や独裁政治がダメだと言う積もりはまだ無い。まだまだ世界は不透明でどうすればいいのか、どのやり方が”長期的に一番安定するのか”は、そうおいそれとは判断出来ないのである。けれども、とりあえず言えるのはそのやり方では恐らく千年待っても福沢祐巳は生まれないという事である。

高等部1年次の11月まで他人の注目を集める事の無かった福沢祐巳がその1年4ヶ月後にこれだけの信望を集められたのは、勿論その間の頑張りと成長、そして比類ない才能が開花したお陰だが、その裏側に長年に渡って積み重ねてきた同学年間での交流と、祐巳自身がこの時期に到るまで”福沢祐巳”で居られた寛容な風土が有ってこそだと、思うのである。

注2
  • 乃梨子たちの学年の人数が約200人(【「チェリーブロッサム」:100ページ】)
  • 祐巳たちと乃梨子たちの学年の人数を足した数は約450人(【「ハローグッバイ」:109ページ】)
  • よって450−200で祐巳たちの学年は約250人

となる。

ちなみに祥子たちの学年の人数は約230人(【「ハローグッバイ」:80ページ】)なので、乃梨子たちの学年の約200人と言うのは、おそらく200人以上と思われる。結果祐巳たちの学年の人数はおそらく250人よりも下。この各学年ごとの人数の推論にはニコニコ動画にアップされた以下の動画が参考になった。

また「13年間1度も同じクラスにならない生徒の出現確率」の計算については、シレっと簡単そうに書いているが実際はどうやって答えを導き出せばいいのかさっぱり分からず、例によって檜木さんのお世話になった。いつもいつも有難う。

注3

二条乃梨子の学年で一年椿組に乃梨子と細川可南子の2名が編入生として確認されている事から、1クラス2〜3名・周りの構い方から推察して多くても4名くらいと当たりをつけた。しかしこの編入生の割合については新入生の半分以上が中等部出身者であるからという記述があり【「チェリーブロッサム」:42ページ】、このニュアンスから行けば編入生の割合は”半分よりは少ない程度”。下手をすると約200人中6〜90人位いて、1クラスあたり10〜15人になる。だが、入学当初の二条乃梨子や細川可南子の肩身の狭さ、リリアン勢の多数派ぶりはその数値では到底納得出来ないので、やはり最大で1クラス4〜5名と考える事にした。

水野蓉子が中等部に受験で編入して来た時の回想では編入組でグループが作れる程度の人数は居たようなので【「いとしき歳月(後編)」:94ページ】、中等部編入時の人数はもう少し多いかも知れないが、それでもせいぜい7〜8人だろう。中等部、高等部とそれぞれ1クラス10人以上の人間が外部から入って来たら高等部でリリアン育ちは過半数を割ってしまい、とてもクラスメイトが乃梨子や可南子に世話を焼いてくる状況にはならないのである。

注4

そういう訳で、この場面【「マリア様がみてる」:89ページ】に書かれていたしかし、福沢祐巳という人間を、今日まで知らなかった(実際そっちの方が大部分なのだが)という文は誤りだと判断した。中等部からこの時点までに行われた4回のクラス替えに限ってみても、全体の51%は祐巳と1度以上同じクラスになった事がある筈なのである。

注5

この環境下で仮面を被り続けた松平瞳子の技術と精神力には呆れる他無い。

注6

だからと言って潤沢なセーフティネットにも限界はあり、一年生全体・所属する演劇部・次期生徒会・親戚でもある小笠原祥子に分け隔てなく喧嘩を売った松平瞳子の豪胆さには感心する。もし教師にも喧嘩を売っていたら役満の完成である。

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