概論
「マリア様がみてる」は抑圧から随分遠い所にある物語である。エスカレーター制の私立学校に通う生徒達は誰もがそこそこ裕福な家庭で育ち、経済・物質的な面で不安を抱える登場人物は皆無で、将来に対する不安や大きすぎる夢へのプレッシャーとも無縁である。更に家庭環境も良好で”親からの虐待”どころか、過干渉や過度な期待すらも見当たらない。創作として考えるのであればそれは作者が慎重にコントロールした結果と言えるが、社会構造としてみてもこの設定に大きな破綻はない。リリアン女学園の環境はなるべくしてこうなっているのである。「マリア様がみてる」で描かれた”抑圧を排斥した社会環境”に注目する。
各論
足るを知る者
物語とは「登場人物が何かを欲する動機と結果を描くもの」だと思うが、その「欲する」というセンテンスを「マリア様がみてる」の中に探すのは難しい。彼女達は基本的に裕福である。学園随一のお姫様である小笠原祥子や、その末席に着く松平瞳子は当然として、敷地内に道場をもつ支倉令、多くの檀家に支えられた小寓寺に暮らす藤堂志摩子。作中で事ある毎に”庶民”と言っている福沢祐巳ですら、都内に事務所兼自宅を構える父親を持つ社長令嬢なのである。「福沢祐巳に対する評価(1):雌伏の時」で祐巳の事を”平均からのスタート”と謳ったが、それはあくまで”リリアン女学園の中で”の話であって、国内統計に照らし合わせれば平均より遙かに上のステータスで暮らしている。
「リリアンの生徒ってさ、基本的に恵まれているから」
【「黄薔薇革命」:武嶋蔦子】
武嶋蔦子が揶揄するように、主人公から短編に一度きりの登場を果たした人物に到るまで環境的な不備は見当たらない。そして満ち足りた環境で暮らす彼女達の望みは、与えられた物に対して反比例するかのようにささやかである。親の仇を討つとか、オリンピックで金メダルを獲るとかそういう大仰な望みは持たず、日々の暮らしを平穏に過ごしつつ、主に対人関係に絞った欲求だけが彼女たちの頭の中を占める。彼女たちの望みがささやかなのは年齢を考えれば当然だが、彼女たちはその”ささやかな望み”を叶えるかどうか、という事にのみ注力出来る事が許される環境に暮らしているのである。主立った登場人物の目立った欲求を書き出してみると以下のようになる。
- 福沢祐巳
- 2年次12月から2月にかけて松平瞳子を欲する
- 島津由乃
- 1年次に健康な体を欲して手術を受け成功
- 藤堂志摩子
- 信仰心以外は特に意識せず
- 小笠原祥子
- 祐巳に会うまでは特になし。会った後は祐巳に借りを返す事を望む
- 支倉令
- 由乃以外目に入らず。その由乃は時折令を振り回したりするが基本的に供給過多
- 水野蓉子
- 特になし。卒業後はフランクな自分に憧れてみるがすぐに挫折
- 鳥居江利子
- 動物園で出会った男に一目惚れして交際開始
- 佐藤聖
- 2年次に久保栞と運命の出会いを果たすも都合により別離
- 松平瞳子
- 1年次通して福沢祐巳を欲しつつ自制。家庭では松平家に貢献することを熱望
- 二条乃梨子
- 仏像。福沢祐巳が松平瞳子を妹に迎える事
- 細川可南子
- 1年次2学期まで福沢祐巳を代償行為により希求
- 築山三奈子
- スクープ。小笠原祥子が祐巳と良好な関係を続ける事
- 山口真美
- スクープ
- 武嶋蔦子
- シャッターチャンス。友人たちの安定
- 高城典
- 松平瞳子
- 内藤笙子
- キラキラした毎日
- 有馬菜々
- アドベンチャーな毎日
いいなぁ、君たち幸せそうで。と思わず僻んでしまいそうだが、それはお門違いだ。これは「幸せな子供たちの物語」であり、この文書ではその幸せを構築する物が誰の手によって、どのように育まれて来たのかを解題しようとしているのだから、幸せが前提なのは当然である。その事は本人達も自覚しており、自身の幸福を疑う登場人物はほとんどいない。「いばらの森」で描かれた2年次の佐藤聖にちょっと不安定な傾向がみられたが、基本的にリリアン女学園の生徒達は自身の幸福の狭間に生まれる悩みが”小さい事”だと謙虚に受け止めている。
元気。
ああ、本当に。端から見れば、元気な女子高生にしかみえないだろう。
こんなに走れるくらいの力が、まだこの身に残っている。
【「パラソルをさして」:福沢祐巳】
確かに、「自分達は平和か」と問われば(原文ママ)「平和だ」と答えていいと思う。生まれてこの方戦争はないし、毎日ごはんは食べられるし、こうして学校に来て勉強もできる。全世界の子供の中では、むしろ恵まれている環境に置かれている。
【「薔薇のミルフィーユ」:二条乃梨子】
さっきまでの、汗をかいたり、言い争ったり、喚いたりしたことが、すべてあんな小さな箱の中で起こっていたなんて、信じられない。
そんなちっぽけな自分なのに、一人前に悩んだりしているのだから。
星だって、さぞかしおかしかろう。
【「大きな扉 小さな鍵」:松平瞳子】
黄薔薇革命で悲劇のヒロインに身をなぞらえて騒いでいた一般生徒や、実家が仏寺という事に後ろめたさを感じていた藤堂志摩子、松平家の後継に身を納める事に拘泥していた松平瞳子など、若干の量り違えもあるにはあったが、その渦中でも彼女たちが自身の事を本気で不幸だと呪う事はなかった。実際に恵まれた環境にある、という事も大きいのだが、それでもその事を忘れずにいる彼女たちは随分と良く出来た子供たちである。世の中には有り余るほどの物を享受しながらまだ足りないと騒ぐ人間も山ほど居るのである。この安定性は何に由来しているのだろうか。
グリーンキーパー
その一因は親たちの子供に対する期待値の低さにある。はっきり言ってしまえばリリアン女学園は大した学校ではない。原作小説の冒頭に書かれるおなじみのプロローグは十八年通い続ければ温室育ちの純粋培養お嬢様が箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学園である。
と結ばれているが、それはつまり、20年近く通っても”箱入り娘程度のものしか出来ない”という意味である。
リリアン女学園には全国区で通用する部活動は見当たらず、他大学に進学する場合のサポートもさほど整っていない所を見ると、学校全体の偏差値も進学校と肩を並べるようなレベルではないのだろう。作中で絶賛された小笠原祥子のピアノや書道の腕前も、コンクールで賞を獲ったという話は聞かれないので、多分その程度なのだろう。日舞の名取である藤堂志摩子とイタリアに留学を許された蟹名静は別格と言っても良いと思うが、その他にそれらしい活躍をしている生徒は見当たらない。ちょっとお高めの学費を払って娘を入れても、実際的な肩書きやスキルはリリアン女学園には望めないのである。
経済的に自立する必要がないので温室育ちで充分、末はどこかに嫁入りするだけと考えている家庭も多い。それも勿論あるのだが、それ以上に重要なのは”子供に自分の人生を補填させようとしている親の姿が見当たらない”事である。自分が英語が喋れないから子供には早い内に英語を覚えさせて将来有利にさせてやりたい、とか自分がピアノを習えなかったので子供には習わせてやりたい、とか、そういうロジックはこの作品の中には見当たらない。ここに出て来る親達は皆自分自身の未来をあきらめたりはしていないので、子供に代償させる必要がないのである。
小笠原祥子は様々な習い事に忙殺されていたようだが、それは強制されたものではなかったようで、水野蓉子の妹として生徒会の仕事を手伝うようになったのを機になんのトラブルもなく全てきっぱりとやめさせて貰っているし、福沢祐巳にしても過去に6年間ピアノを習っていたが、あまり身にならなくてやめた、と述懐している。家を継ぐという問題に関しても、継ぐことに拘泥していたのは小笠原祥子や藤堂志摩子や松平瞳子達であって、親の方は揃いも揃って「継がなくてもいい」と諭している。子供に何某かの強迫観念を押し付ける親は、少なくとも作中で描写された限りにおいては1人も居ないのである。
小笠原グループを統べる祥子の父親を始め、独立して設計事務所を開いた祐巳の父親、檀家回りや講演会などで忙しい志摩子の父親。道場の運営や自身の稽古に勤しむ令の父親や、引退を決めたといえまだまだ現場で患者と接する瞳子の祖父なども、皆自分のするべき事を見誤らず、その道の精進を続けている。母親たちもリリアン卒業率の高さも関係するのか、皆のんびりとした性格で、子供にあれやこれやと指図する姿は見受けられないし、子供を叩く場面など想像する事も出来ない。彼等は子供に理不尽な規律の遵守や身の丈以上の資格を要求しないのである。だからと言って放任主義なのかと言うとそうではなく、一定の制限を子供に納得ずくで設けたり、子供の運動会や卒業式には無理矢理スケジュールを融通して駆けつけたりもする。おかしな期待はかけないが、手間や愛情はしっかりかけているのである。
その成果が如実に見えるのが福沢家で、福沢祐巳には年子の弟・祐麒がいるが、この姉弟の仲睦まじさは奇跡的である。年の近い姉弟となれば、お互いが両親の愛情や時間を奪い合うライバルと言え、大抵は年長の方が「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」と言われて飢餓状態のスパイラルに陥り、弟に憎憎しい感情を持ったりするものだが、過去にも現在にもそんな様子があった様には見えない。(注1)四六時中ベタベタしたりはしないけれど、祐巳は祐麒にわざとじゃんけんで負けて風呂の順番を譲ってやったり、祐麒の方は姉の緊張をほぐしてやったり、姉を傷付けたと思われる柏木優に牙を剥いたりと、お互いがお互いを思いやる姿はそれこそ枚挙に暇がない。これは親が相当潤沢に、且つ公平に姉弟に愛情を注がなければ生じ得ない光景である。また、その両親の公平性に恩恵を与った祐巳だからこそ、彼女自身の公平性が強化される結果にもなるのである。
「マリア様がみてる」に登場する大人たちは皆、福沢祐巳の事が大好きである。学力も容姿も月並みな彼女がそれだけ評価されるというのは、大人たちの評価軸がそこを重要視していない、という事でもある。池上弓子がほぼ初対面で祐巳の事を「良識のあるご両親に育てられた、しつけの行き届いた娘さん」
と看破した通り、確かに福沢祐巳は本当の意味で良い子なのだが、そう育つ為には周りの評価軸が不正であってはならない。公平である事で不利益を被ったり、真面目である事より強制された習い事で良い成績を出す事を優先され続けたりしたら、そういう風には育たないのである。
まとめ
自分の娘をリリアン女学園なんていう、嫁入り時のステータスにしか寄与しないような学校に入れようと思う段階でこの母集団にある種の偏向が形成されている。経済的な余裕という一言で片付けてしまう訳には行かない程、この集団の親たちは子供に変な期待を押し付けない。そういう期待や代償行為に夢中な親達は、そもそもこの学校を選択しないので当然と言えば当然であり、親の過剰な期待やいびつな評価軸にさらされていない子供たちが、そういう子供たちで構成された集団の中で育つ訳だから、その傾向が更に強化されるのもこれまた当然である。しかも母親がリリアン出身という生徒がごろごろ居るのだからこの強化は何代にも渡り、最早品種改良の域に達していると言ってもいい。
リリアン女学園は親からの抑圧に無縁の子ども達が繰り返し入学し、その傾向を強化していく農園だったのである。
- 注1
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普通に姉弟喧嘩はしていたようだが、その際に母親がちゃんと祐巳の言い分を訊いている事が第一巻の祐巳のダイアローグで描かれている。頭ごなしに年上の方を責める親が多い中、立派な振る舞いだと言える。