unlimited blue text archive

マリア様がみてる:映像表現としての「マリア様がみてる」

作成年月日
2010年04月11日 00:00

序文


マリア様がみてる:福沢祐巳に対する評価」「マリア様がみてる:幸福のアーキテクチャ」で散々画像を引用させて貰ったアニメ版「マリア様がみてる」についてこれまで言及して来なかったが、このアニメが果たした役割はとても大きい。原作小説が話題になっていたのは確かだが、本来のコバルト文庫読者層のみならず、その周辺部にまでこの作品を認知せしめたのはやはりアニメ化された事がきっかけだったと思われる。何を隠そうこれだけ手間暇かけてhtmlを打っている私自身アニメから先に入った口であり、3期までは原作未読状態でアニメを堪能していたのだ。

しかし4期序盤で原作に手を出し、瞬く間に全巻読破した後にアニメの方を追ってみると、それまで堪能していたアニメと原作の間にかなりの開きがある事を教えられた。どんな作品でも表現手法の違いや、制作期間・予算・スタッフなどの都合で原作のエッセンスが取りこぼされる物だが、失った物以上の新しい価値を加えたり、或いは本来不要だった部分をカットすることでより作品の本質を浮かび上がらせる事は出来る筈であり、実際それに成功している作品は僅かながらではあるが存在する。アニメにはアニメにしか出来ない事があり、そこに原作が到達出来なかった部分を落とし込む事が出来れば、そのアニメ化には意義があったと言って良いと思う。

では、アニメ版「マリア様がみてる」はアニメ化する意義があったのだろうか。原作を広く認知せしめ、集英社の売り上げに貢献し、版を重ねる後押しをした事に疑問の余地はないが、一つのアニメ作品としてはどうだったのだろう。原作未読の視聴者に対して、原作より先に物語のあらすじや結末を教えてしまうという行為に見合うだけのクオリティを提供出来たのだろうか。

結論から言えば、アニメ化した意義は大いにあった。しかしそれは4期の第13話まで観続けられたらという条件付きである。そこに到る手前で脱落する位なら最初から原作を読んだ方が良い。紅薔薇姉妹に関係ないイベントを悉く割愛して猛スピードで駆け抜けた4期は、突っ込みどころや「そこは何とかならなかったのか」という落胆、或いはシリーズ構成の違和感など様々な批判を呼びはしたが、それでも唯一「マリア様がみてる」の映像として望ましい解に辿りついた貴重なシリーズだと思う。

今回はアニメ版「マリア様がみてる」を1期から振り返り、4期が手に入れたアニメーションとしての「マリア様がみてる」の価値について考察してみたい。

目次


次文書
映像表現としての「マリア様がみてる」(1):処女航海