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映像表現としての「マリア様がみてる」(4):予期せぬ客人

作成年月日
2010年04月15日 00:00

概論


原作付きのアニメを観ていて、しかも既にその原作を読んでいながら目の前の画面に震えてしまう。そういう経験を得る機会はさほど多くない。何が起きるかを知っており、ディスプレイの中の物語もその様に進んでいる。なのに体の芯から名状し難い震えが起こるとしたら、それは「演出」の力を目の当たりにした時だ。

物語の作者は決して創造主ではない。彼らは自身の内なる声に耳を澄まし、それを書き写し触れ回る吟遊詩人のような者である。彼らは慎重だが時には聞き漏らしたり、正確に書き写し損なったりする。ただ、彼ら以外にその声を聞く者がいないのでその”再現度”は通常問題とされない。他に較べる物が無ければそれが唯一つの教典となる。しかし、それは決して永遠を約束された物ではない。優れた第三者がその教典を読み込み、誰も聞いた事のない”本当の声”に辿り着いてしまう事はあるのだ。

「マリア様がみてる」4期第6話「予期せぬ客人」放映。今まで原作に負われていたアニメが、初めて原作を凌駕した瞬間である。

各論


サイレント・ヴォイス(2)

【祐巳がアクセスした”髪を巻いていない”瞳子】

第6話冒頭から奇跡は訪れる。柏木優に言われた事を自室で悶々と反芻する祐巳に届く”声”。母親に呼ばれたのかと思って階下を訪れるシーンだが、その”声”に音声はなく、ただ少女の口元が一瞬映るだけである。音声の無い小説では”声”と書かれた物が、音声のあるアニメではその”声”を奪われ、映像として表現されている。

勿論、その声を発した主が瞳子だと祐巳に特定されるようでは困る為の処置であるが、この回の演出が慎重なのは、その映像の少女が”髪を巻いていない”所である。祐巳は声の主が誰だか分からないので、この少女が”ドリル”であってはいけない。また、”ドリル”は瞳子が母親の昔の髪型を真似た結果であり、それは生い立ちの引け目を打ち消す為に必要以上に松平家に献身しようとする瞳子の代償行為の象徴なので、祐巳に瞳子の心の声が届いたのであれば、この少女は絶対に髪を巻いていてはいけないのである。

そして瞳子が祐巳の家に拿捕されて来た時、この少女はまた姿を現す。これはアニメだけのアレンジであり原作ではこの少女に相当する”声”は冒頭の一回しか書かれていない。瞳子が祐巳の部屋に通され、そこで事の顛末を”平気そうな顔”で偽る時、祐巳は瞳子の声を聞きながら、少女のヴィジョンに幻惑される。”髪を巻いていない少女”は”髪を巻いた松平瞳子”へと姿を変え、祐巳の中に回答と奢りを同時に与える。

最初正体不明だった声のヴィジョンが祐巳の確信を得て松平瞳子の姿に変わる。祐巳が瞳子の姉になる資格を有する事、その資格がまだ完全では無いことの両方を示唆するシーンである。またこの確信と安堵は、祐巳の腕が瞳子へと伸びるトリガーとして効いている上に、その祐巳の挙動に”瞳子が気付いて驚く”くだりを作る事で、瞳子が自身の迂闊さを反省し、後日クリスマスパーティーを辞退しようとする流れにスムースに繋がる。

この演出が果たす役割は非常に大きく、祐巳が次回「未来の白地図」でロザリオを差し出す為には祐巳の中にある種の「自覚」が必要であり、また、そのロザリオが断られる為には、ここで祐巳が”読み間違えている”必要があった。祐巳は最初確かに瞳子の”本当のこころ”にアクセス出来たのに、その少女が瞳子であるという確信を得た瞬間、瞳子を祐巳が良く知る”偽られたかたち”で眺めてしまった。その自覚と油断をこのシーンに走らせる判断は賢明などという言葉ではとても片付けられない。これまで瞳子を妹候補として見て居なかった祐巳が我を忘れて瞳子を抱きしめようとし、更に翌日柏木に事情を聞きだそうとし、クリスマスイブにロザリオを差し出す為には、このバックグラウンドシーンは必要不可欠であったのだと、このシーンを目の当たりにして初めて知る事が出来たのである。

このシーンがただ原作に書かれている事をなぞっただけのものであったなら、この後訪れる修羅場と祐巳の悲しみの度合いも随分違って見えただろう。ここで祐巳に”瞳子の本当の心の声を聞けた”という実績を与える事で、ロザリオを出す動機と断られた時のショックの両方が準備される。原作のセリフを音声でなぞりながら、しかしその奥にある物を映像で同時に描き出したこの邂逅は、映像作品ならではの醍醐味が味わえるマリみて屈指の名シーンだ。

魂の輪舞曲

瞳子が祐巳の家に連れて来られる前、カメラは小笠原邸の祥子と令を捉えている。ここで由乃の挙動を不審に思った令が思いつめて我を忘れるシーンでも、アニメ版は大胆なアレンジを行った。原作ではテーブル越しに令を諌めた祥子が、アニメ版では令の後ろまで歩き、背後からそっと抱きしめて令を落ち着かせるのである。

尺を詰める為の有効なやり方という面もあるが、何よりこのスキンシップが平然と行われる様を見せられる事でこれまであまり描かれなかった”祥子と令は同学年で、2人で山百合会を背負って(志摩子は1学年下である)頑張ってきたのだ”というバックボーンが鮮やかに提示された。そういえばこの2人はこれ位出来る間柄の筈だよな、と改めて認識させられる貴重なシーンであると同時に、祥子が本来持つ人間性の一端を提示してキャラクター性に深みを与えた大事なシーンだ。

【繰り返されるリリアンの営みに似た影の踊り】

そしてさらに小笠原邸内を自転車の二人乗りで門に向かうカット。外部の大学に進む決意をした令と、それを好意的に受け入れた祥子の影が、外灯の横を通り過ぎる度に画面の右から現れ左へと消え、また右から現れる。映像で観て貰った方が手っ取り早いのでgif動画を用意したが、現れては消え、また現れては過ぎていく影の踊りはそのままリリアンで連綿と受け継がれてきたスール制の姿である。

祐巳に手渡したロザリオがやがて祐巳の手を離れ次の誰かの首に掛かる予感。祥子たちが卒業し、新入生が入学し、次は祐巳たちが卒業する未来。親しかった人達と別れ、その人達もまた消えて行くけれど、それでも確かに受け継がれ、繰り返される物があるという安堵。祐巳と瞳子がギリギリの邂逅を果たす直前に祥子と令が穏やかな笑い声と共に学び舎を去る未来を暗示する事で、祐巳と瞳子もまた同じ所に留まり続ける訳には行かないのだ、という予感を我々に与えるのである。

サイレント・ヴォイス(3)

この回の最後を締めくくるのは可南子と瞳子をクリスマスパーティーに誘うシーンだが、ここでも細やかな配慮が画面をコントロールする。祐巳と志摩子が1年椿組に出向いて二人を誘った際、お流れになりそうな所を可南子が機転を利かせて巻き返す場面で、瞳子は可南子を遮ろうと手を延ばすが可南子はその手を握り、「何か持って行くものはありますか」と祐巳に向かって問うのである。

上手い。原作では可南子が瞳子の手を握るのは「わたしたち」という部分を強調する最後の最後(もちろんその部分もアニメ版で描写されている)になってからである。だがそこをなぞるだけでは良しとせず、可南子の心の動きを紐解き、瞳子が辞退出来ない雰囲気を補強し、さらに原作よりも自然に手を握らせる事に成功したこのシーンは見事と言う他ない。

当惑して延ばした瞳子の手を表情を変えずに握る可南子。実際のセリフもモノローグも無いが(ここは私の言う通りにしておきなさい)という確かな声が聞こえる。さらに続けて「何か持って行くものはありますか」と尋ねるカットでも可南子は別のセリフを心の中で言っている。モノローグも思わせぶりな沈黙も使わずに多重音声を表現するこのシーンは表現手法としても見事だが、先に行われた祐巳と瞳子の邂逅とは別のやり方で声なき声を表現しているのも興味深い。

原作の可南子はおそらく無心で「何か持って行くものはありますか」と訊いているが、アニメの可南子には確かな意思がある。松平瞳子を「持って行く」決意があり、自分で尋ねておきながら「それ以外に持って行く必要のあるものなぞない」という答えすら自身の中に湛えているのだ。原作者は聞き取り逃したか、或いは何かの事情で割愛したのかも知れないが、この時可南子は”そういうつもりで”言った筈だという説得力が、ここにはある。

流れるようなカット割りと、鳴らすべきセリフに焦点を当てた演出が光るこの「予期せぬ客人」は、「マリア様がみてる」という作品が完全に解題され、その本来の声が描き出された事を証すマイルストーンになった。「マリア様がみてる」の中でこれが行われたのが凄いと言っているのではない。他の並居るアニメーション作品を門前払いにする程、この回で行われた配慮とコントロールはずば抜けているのである。

まとめ


出色の出来と言っていい。演出:筑紫大介 絵コンテ:小島正士とクレジットされた第6話「予期せぬ客人」はシリーズ全体を通して、また日本のアニメーション全体の中で見ても一部の隙もない傑作である。「マリア様がみてる」を含む数多くの原作付きアニメが「とりあえず原作をアニメに置き換えておけばいいか」という範囲から抜け出す事は少なかった。この回で魅せたスタッフワークは、それがただの傲慢だった事、原作に寄り添いながら、原作を徹底的に読み解けばここまで出来るのだという事を証明した。

また、1期・2期でキャラクター達から奪われた”心の声”を、モノローグという手段を使わずに別の表現で取り戻した事も特筆すべき事である。当初オミットされた登場人部たちの世間ずれした部分を3期以降の卓越したレイアウトで補い、原作ですら見逃していた本当の声をフィルムの中で”聞かせた”偉業はマリみてファンに留まらず全てのアニメーションフリークに観てもらいたいと心から思う。

だがこれ以降の回も軒並み同じ水準で作られているかというとそんな事はなく、中には目も当てられない仕上がりの回もあった。また構成の都合で紅薔薇以外のエピソードが悉く削られ割を食ったキャラクターも枚挙に暇が無い。なるべく無難に原作を消化して来た「マリア様がみてる」の中で、この第4期は相当な異端児である。

しかしそれでもなお、この第6話と後に触れる第13話の功績をもって、第4期を全肯定したい。これまで意図的に歪められたり、或いは手探りだったアニメ版「マリア様がみてる」の本来あるべき姿を提示した事はそれ位の事件である。もし第5期以降が制作されるとなっても、もう針路に悩む必要はないのだから。

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マリア様がみてる:映像表現としての「マリア様がみてる」