unlimited blue text archive

映像表現としての「マリア様がみてる」(5):In the rule

作成年月日
2010年04月16日 00:00

概論


「マリア様がみてる」4期の一番の特徴はこの物語が我々が日常暮らしている世界のルールの中で営まれていた事を明かした事にある。「お姉さま」「ごきげんよう」で視聴者に「どこの国の話だよ」と突っ込ませたこのアニメーション作品は、当初その部分”のみ”抽出して原作の雰囲気をより先鋭化させた独自の世界観を展開したが、福沢祐巳の語られなかった内面が、オミットしたモノローグの替わりにその行動をもって描き出せるようになったのに呼応するかのように、この世界の描写も書き割りのセットから現実のルールを内包したリアリティのある物へと変貌した。

この章ではこの4期が辿りついた「マリア様がみてる」の映像文法をなぞり、この作品に何が必要だったのかを明らかにする。

各論


さよならエッシャー

4期第12話。「クリスクロス」は原作の「地図散歩」のエピソードが入れられなかった為”乃梨子が社会化準備室に来られた理由が不明”となり、それはひいては”祐巳さまは瞳子のことを大切に思っていてくれる”事の証左が一つ失われてしまう事態を招いてしまったわけだが、それでも瞳子が自身の躊躇いを振り払い祐巳にその身を委ねようと決心する場面を、それに相応しいレイアウトで描き出した。

社会科準備室から薔薇の館に到るまでの道のりが映るカットはこれまでの不文律をかなぐり捨て、高等部の校舎の中に”距離”の概念が取り込まれた画期的なものである。校内の全体像を俯瞰したカットも無く、場面が変わる時は途中の道筋を省略する事が常だった「マリア様が見てる」の映像文法において、初めて用いられた2地点間の距離を実感できるカット割りと言ってよい。

社会科準備室を出るカットから動線は右から左へ動き続け、階段の折り返しを経て今度は左から右へと切り替わる。画像は割愛したが時を同じくして席を立ち祐巳の前に歩み寄る祥子も左から右へと歩を進め、祥子と瞳子の両者が祐巳に向かって一直線に進むカット割りが素晴らしい。

2地点間の距離が実感できるカットと言うのはアニメ作品においては概ね希少である。最近はCGによって若干制約が緩くなってきたがアニメの背景は基本的に角度を変えながら観られるようには描かれていないので、”ずらす”位しか動かしようがない。実写では登場人物が歩きながら話す場面を横からカメラが追い続ける場面でも画面の両端で背景にパースが付く為単調にならずに済むが、アニメでソレをやると本当に平面的な絵が続いてしまうので、そこはモンタージュを駆使して場面を繋ぐのが通常用いられる文法である。ただ「マリア様がみてる」においては画面レイアウトの段階で地理的距離感が感じられるような構図が悉く忌避されて来たので(参照:「エッシャーの箱庭」)、通常の作品よりもさらに情報が少なかったのだ。

いつも”いつの間にか登場人物が居た”薔薇の館を目指し瞳子は走る。秒数はさほど多くないがマルチで引かれた校舎と薔薇の館、更に懸命に走る瞳子が別々の速度で移動する事で、この周辺のスケール感がありありと伝わる。リリアン女学園高等部が登場人物たちの後ろに立てかけられた騙し絵ではなく、その中で生徒たちが学園生活を営んでいる”一つの世界”である事を自ら証明した1カットであり、続く最終話に向けてどうしてもクリアしておかなければならなかった約束が果たされた瞬間でもあった。

取るに足らない者たち

付かず離れずの距離から一転、ゼロ距離で相打ちした挙句置き去りを繰り返し見込み違いを重ねた二人が一つの点に重なる瞬間。間違いなく、現時点で一番のクライマックスはこの最終話「あなたを探しに」の中にある。祐巳自身はこれを”瞳子ちゃんを探す旅”と位置づけ、宝探しがまだ終わっていないという文脈で理解していたが、それは少し当たっていて、少し外れている。

宝探しをする際に必要なのは”宝を探すこと”ではなく”宝以外の場所を把握すること”である。地図を見て暗号を解き、山のある方向、目印の木までの距離、そこからどちらに何メートル行った場所なのか、宝の埋まった場所以外を全て解き明かす事でまだ見ぬ宝の場所が見つかるのである。瞳子の事だけで頭がいっぱいになっていた祐巳が、選挙を通じ自身の公平性と視野の広さを刷新して瞳子以外の場所をクリアにした事で、瞳子を置くべき場所を用意出来たように、目的地は周囲を把握してこそ見える物だ。

「マリア様が見てる」4期の映像文法はまさにこの「周囲の把握」を主眼に据えられたものだった。独特の社会構造と耽美な雰囲気を抽出した脚本に、近視眼的で距離感の掴めないレイアウトが主体だった1期・2期の殻を破り、祐巳の視野とコントロール可能な範囲が拡大するにつれてカメラの画角も変わって行った。人物は背景の中にフィックスされ、世界は連続性を取り戻した。「マリア様がみてる」がおとぎの国の話ではなく、今生きている我々の暮らす場所と地続きだった事を朗々と謳いあげるようになったのである。

駅前で合流しバスや電車を乗り継ぎ山の麓病院へ向かう描写は丁寧なロケハンに基づいて行われ、徐々に山の緑が濃くなっていく変化が、逆にリリアン女学園が雲の上にある楽園ではなく、緑豊かな郊外に隣接した都市部に作られたただの私立校である事を明快に物語る。
途中で挿入されるトンネル内のシーンでは瞳子の話がどこに向かうのか全く読めない為に先の見通しが立てられないでいる祐巳の心情を奏でながら、外を暗くする事で窓ガラスに2人の顔を映り込ませ、背中からのアングルを維持しつつその表情を捉えている。瞳子が話を切ると同時に電車がトンネルを抜けて陽光の下に出てくるタイミングも完璧である。
そして、病院のシーンでは台詞が無い時は2人を遠く小さく描き、リリアンの外における2人の無力さを丹念に暴く。また、瞳子の隣を歩いていた祐巳が、病院では瞳子の一歩後ろに立って後を付いて行っている様子を繰り返し映す事で、祐巳からロサ・キネンシスの威光を剥ぎ取る事に成功している。

松平瞳子は病院の経営者の孫でそこそこ患者との交流もあるが病気や怪我に対して何の力もないただのお嬢様であり、福沢祐巳はロサ・キネンシスの名声も支持も持ち合わせない、ただの名も無いお客さんである。「薔薇さま」だの「お姉さま」だのという権威はあの小さな箱庭でのみ通じるおままごとの産物であり、リリアン女学園の外側にはそんな事とは無関係な地面と暮らしが確かに存在している。これまで描かれた外界はリリアンのOGが書いた小説を発行していた編集部や、小笠原家の権勢が幅を利かせる別荘地など、いずれも何某かの恩恵を受けられる場所だったが、この場所は子供や学校や家の事情などが微塵も及ばない、”完全な外界”である。ここで2人は入院患者や職員たちと同格に扱われ、その儚さは2人が”宝の埋まる場所”に辿り付いた場面で頂点に達する。

事故現場の道路を瞳子と祐巳の後ろからぐるりと見渡すパンは、「マリア様がみてる」では非常に珍しいカメラワークである。これまでどんなに被写体までの距離が近くてもカメラはパンではなく水平に移動していた。カメラが場所を固定して首を”振った”このカットは、今まで採られなかった手法であるが故に、この事故現場に立ち会う視聴者にも”特別な感情”を呼び起こさせる。
また救助シーンの3カットが挿入されたことで地理的な連続性だけでなく、社会の連続性も取り戻す事が出来た。松平瞳子は奇跡的に一命を取り留めたのかも知れないが、彼女を救い出したのは社会の要請を受けて消防業務に就いていたレスキュー隊や周囲の安全を確保した警察であり、その事実が描写される事で2人の無力さが鮮やかに浮かび上がる。

車も人も通らない山道の途中。前後に伸びた道路の先は見えず、崖の斜面と山の木々が上下の視界すら制限する中でたった2人。唯一視界が開けた眼下の街並みは手も届かない程遠い。道の両端を入れ込んだ長めのパンが、これまでのシリーズでオミットされて来た”距離の実感”を取り戻した4期の映像文法の真骨頂であり、インサートされる過去の映像は原作の”その向こう”を探し続けた演出家が手繰り寄せた決めの一手である。

瞳子は苛烈な運命に抗う事も出来ずに両親を失い、祐巳は大事な妹の命が”自分とはまるで関係のない枠組みによって”引き戻された事を知る。ここは瞳子も祐巳も、何一つ自由に出来ない場所だが、これまで数々のトラブルを自身の才能や生徒会への支持、或いは恵まれた友人達の尽力で乗り越えてきた福沢祐巳の物語から、その”全能感”を剥ぎ取るのは文章で書くほど簡単ではない。慎重に計算し、惜しみない手間をかけたからこそ、リリアンの外に在る2人の無力さを描き出せたのだ。

自身の出生を明かすだけなら薔薇の館でも出来るのに瞳子はそうしなかった。ロサ・キネンシスでもなく、演劇部の生意気な1年生でも無い、ただの2人になれる場所まで祐巳を連れ出し、過去も現在も学園の外も全部ひっくるめて自身を明け渡した上で祐巳に受け入れて貰う事を願ったのは瞳子である。その願いに応えるべく演出家も原画家も全神経を注いで2人をこの場所まで連れてきた。乗り継ぎを重ね病院を探索し寂しい山道を進む道程を丹念に追い、2人が普段暮らしている学園の”外”の景色とその社会構造を描き出し、2人がおとぎの国の住人ではない事を証明した。学園と同様その周りの世界も過去の映像もきっちりとリアリティを持って描き切った。

リリアンの制服を身に纏わず、ロサ・キネンシスの栄光も届かない山間に立つ福沢祐巳も、普段の虚勢を打ち捨て訥々と自身の出自を晒す松平瞳子もこの場所では恐ろしく頼りない。手に出来る物は何もなく、自身の名前を知っている人間もお互い以外にはいない。確かな距離感とリアリティを獲得した舞台の上で2人の小ささが画面に焼き付けられる。

だからこそ、こんなにも美しい。

多くの人々が暮らす遠くの街並みを同時に入れ込む事で瞳子と祐巳の”事件”を徹底的に矮小化させている。この背景が”木漏れ日の差す深い木々(カメラの位置を変えればその絵は容易に手に入る)だった場合矮小化は起こらず2人の抱擁はドラマチックさを増すがその選択はない。それではここまで積み上げた物が崩れてしまう。

ただの祐巳がただの瞳子をその腕の中に収める瞬間を誠実に描く為に、4期スタッフは徹底的に”周囲の世界”を暴き出した。校舎から薔薇の館までの距離、駅から病院までの距離、病院から事故現場までの距離。全てを詳らかに描写したからこそ、2人がただの年端も行かない娘に”なる事が出来た”のである。

この回を、このシーンを成立させる為には1期・2期の映像文法ではまるで届かない。リリアン女学園をおとぎの国にしたままでは、このシーンは成立しないのである。

まとめ


繰り返し述べたように4期は紅薔薇以外のエピソードが悉く割愛され、なのに尺も足りずあちこちで齟齬が出たシリーズだったが、第6話で見せた演出の切り込み、全体を支えた確かなレイアウトは”祐巳と瞳子の物語”のクライマックスを飾るに相応しいものだった。リリアン内部に留まらずその外界をもきっちり描写して見せた事でシリーズ立ち上げ時に捨てた現代性が別の形で取り戻されたとも言える。しかしこのディレクションが全話通して表現された訳ではなく、クリスマスパーティーの出だしや第10話での唐突な祥子のモノローグなど原作のフォーマットをそのまま再現しようとしておかしなことになったケースも散見された。手間とスキルが必要なこのやり方を回し切る程の余裕は無かったのだろう。

試行錯誤の中、一部優秀なスタッフの力量がたまたまマッチしただけなのかも知れないが、とにかくアニメーション「マリア様がみてる」は、この物語に相応しい映像文法を獲得した。3期でリファインされたキャラクターデザインと奥行きのあるレイアウトをテレビシリーズで全話崩さずに作画した功績も評価に値する。クライマックスを終えた後に言うのもなんだが、4期を得て初めて「マリア様がみてる」をアニメで記述する準備が整えられた、と言えるのかも知れない。

次文書
映像表現としての「マリア様がみてる」(6):天と地と
目次
マリア様がみてる:映像表現としての「マリア様がみてる」