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映像表現としての「マリア様がみてる」(6):天と地と

作成年月日
2010年04月17日 00:00

終わりに寄せて


この文書も終わりに差し掛かったと言うのに、まだ一つ、スッキリしていない事がある。そもそもこの文書を書こうと思ったのはアニメ版「マリア様がみてる」が途中でディレクションを変えてくれた事への感謝の気持ちを表したいと思ったからだ。1期・2期のディレクションを非難するつもりは無いが、しかし結果的にはそうなるだろう、そう予感するほど3期以降の「マリア様がみてる」を褒め称えたかったのである。

原作を読んだ後でアニメ版を観返してみれば、「これは違う」「何故そうする」「そこはそうじゃないだろう」というエクスキューズが次から次へと押し寄せ、アニメ版から入った癖になんだか居たたまれなくなった。自分にとっての福沢祐巳を先の文書で解題した後はその思いが更に強くなり、リアルタイムで進行する第4期を観ながら時折り「そうじゃねー!」だの「何やってるー!」と奇声を上げていたのである。

4期の第6話と11〜13話はそのフラストレーションを吹き飛ばす出来で、そう、こんな「マリみて」が観たかったんだ。いや、観たいと願った以上のものだ!と興奮したが、そうなると尚更思うのだ。「何故こんなに時間がかかってしまったんだろう」と。

図書館で当時のアニメ雑誌を取り寄せて貰いざっと眺めてみれば、放映直前の「マリア様がみてる」の扱いの小ささが目に付く。1期・2期のディレクションがどうこう言った所でそれは単に予算が少なくて「それを選択せざるを得なかった」だけの話なのではないかという要約に自分自身乗ってもいいかと思っているくらいだ。

しかし、こうして3期以降のディレクションの見事さを書き連ねた後になってもなお、1期・2期をこのディレクションでやり直す所は想像出来ないのである。背景の情報がスムースに与えられ、キャラクターと風景がきっちりとフィックスされた画面の中で福沢祐巳が小笠原祥子との関係を詰問され、ついに泣き出してしまうシーンが想像できない。というかそれではとてもじゃないが祐巳が泣けそうもない。

最初から見晴らしの良い場所でこの物語が展開されていれば、受ける印象は全然別の物になった可能性もある。1期・2期の閉塞感(受動性)と、3期・4期の開放感(能動性)は対になっているからこそ、福沢祐巳の才能が開花していくあの高揚感が一層際立つのではないか。そういう回答をどうしても捨て切れない。こんな事になるなんて、この一連の文書を書き始めた時には想像もしていなかったのに。

今となっては1期・2期のディレクションと3期・4期のディレクションは分かち難く、双方あってのアニメーション版「マリア様がみてる」だと思えるのだが、それでも3期以降の誠実なディレクションについてはやはり条件無しで評価する機会を与えるべきだと思う。全話は無理でも1期・2期をダイジェストで作り直し「マリア様がみてる」未見の視聴者に対して最小限の手間で4期第6話と13話を届けられるのであれば、そうして貰いたいと願う程に、今の「マリア様がみてる」を支えるスタッフワークは優れている。

実写映画版の製作が発表され、もしかしたらこれを追い風に”第5期”の可能性が芽生えるかもしれないが、その時はここまで積み上げた礎を土台に、より研ぎ澄まされた演出と画面設計で「マリア様がみてる」を描いて貰いたい。これは原作ファンとしての願いではなく、アニメーションフリークとしての願いである。

「原作を読んでいれば」或いは「原作で補完できれば」というエクスキューズなしにアニメ版「マリア様がみてる」を評価出来る機会が、もう目の前までやって来ているのである。

目次
マリア様がみてる:映像表現としての「マリア様がみてる」