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映像表現としての「マリア様がみてる」(2):大航海時代

作成年月日
2010年04月13日 00:00

概論


アニメ用にカスタマイズされた「マリア様がみてる」は”とりあえず”見切り発進した。舵を切る方向が定まれば後は漕ぎ続けるだけだ。しかしそれは想像以上に過酷な旅である。何故なら旅の目的地がどこなのかスタッフは知らされていないのだ。途中で沈没したり補給が受けられなくなったりといった危険を回避しながら、それでも前に進み続けなければならない。この章では放送を開始した「マリア様がみてる」が長期スパンでの放送形態にどう対応したのか、対応し切れなかったのを見て行く。

各論


ガレー船のごとく

「マリア様がみてる」という物語はアニメ化しづらい問題を抱えていた。序文でも少し触れた通り、物語の序盤では福沢祐巳の資質がまだ開花していない為に主人公として物語を能動的に引っ張っていく能力に著しく欠けていたのである(参照:「マリア様がみてる:福沢祐巳に対する評価」)。

1期から2期にかけての福沢祐巳には物語に積極的に介入しようとする姿勢も、いざ頼りにされた時に問題を解決する機転もなく、しかも脳内で披露される抜群のバランス感覚はディレクションによりオミットされた為、主人公としては甚だ心許ないキャラクターになってしまった。名探偵は事件に巻き込まれた後に名推理を披露して犯人を突き止めるが、福沢祐巳の立ち位置と言えば毎度事件に巻き込まれた後、名探偵が犯人を突き止める所を横で感心しながら見ている宿泊客の様なものだった。主人公が最後の1カットにのみ控えめに顔を出す1期のオープニングはまさしくこの物語のパワーバランスを示したものである。

把握し難い複雑な社会構造を持つ山百合会の人物紹介をなるべく分かりやすく解説しようとしたオープニング。個人的には曲のディレクションの責任の方が大きいと思うが、フォーカスのウェイトを誰に置くかという選択はされず、全員仲良く横並びの中ロザリオを受け取る事くらいしか描くべき部分がない福沢祐巳の”期待値の低さと受け身感”が良く出ている。

元々「マリア様がみてる」は一人の主人公に物語のドライブをまかせっきりにするような構造ではなく、その巻ごと、あるいは短編ごとにスポットライトが当たる人物が変わる。しかしそれは膨大なテキスト量と少し長めの発刊スケジュールだからしっくり来るのであって、原作の大部分をスポイルしテンポアップした上に毎週放映されるテレビアニメでキーパーソンがコロコロ変わっては主人公に馴染む間もない。1期全13話の内、祐巳の当番は計7回。2期全13話に到っては甘めにカウントしても計6回で、通算26話のうち半分は”祐巳以外の人間が主役を務めた”のである。自身の口で「何の取り得もない」と言わせてしまう主人公が出番も半分ではどうしようもない。

シーズン制の弊害

また、主人公の弱さという点以外に、”シーズン制”という製作体制が物語の足を引っ張る事もあった。アニメ版「マリア様がみてる」は

上記4シーズンをインターバルを挟みつつ5年に渡って制作されたシリーズだが、それらは”次がある”と確約された上で作られた訳ではない。原作は好評で続々と新刊が発行されるが、アニメ制作は自転車操業である。上手く行けば続きがあるが、ダメなら今回が最後。その状況では”どの程度原作に準拠するか”の匙加減が難しい。シリーズ毎に山場を作る必要があり、主人公が頼りない為各キャラクターにバランスよくスポットを当てなければならない。尺は無限ではなく原作は未完でどこを切るかの判断を誤れば齟齬が出る。薄氷を踏むようなスリルの中、結果的に「やっちゃった」部分は数え切れない。

【残念な結果となった祥子と優の会話】

例えば、祥子の婚約者である柏木優が「自分は男しか恋愛の対象にしない」と祥子に告げた部分は、色々難しい所に配慮したのか丸ごと無かった事にされた。たかが外野の回想話で藪をつつく必要もなかろうと判断したのか、生々しい部分が「マリア様がみてる」にそぐわないと判断したのかは分からないが、この柏木優が後に洒落にならない程重要なキャラになって来る為このセリフを削った事があちこちに無理を生じさせた。特に4期第10話の柏木と祥子の会話は、この因縁に決着が着く大事な部分だったのだが、「同性愛者だと言った癖に祐巳の事を気にしている」という矛盾が成立しない為に、なんとも隙の多い会話になってしまったのは残念である。

また2期第1話の「長き夜の」で小笠原邸を訪ねるのは祐巳と佐藤聖だけだったところを主要人物全員が集まるよう変更したのだが、これは相当に”ダメな”改変である。男たちが愛人宅に出向く正月2日に祥子とその母の清子の寂しさを紛らわせる為に佐藤聖が祐巳を連れてきたからこそ”小笠原祥子には福沢祐巳が必要なのだ”という設定が表現されるのに、そこで他の連中も呼んでしまっては祐巳の価値が目減りしてしまう。

【祐巳だけ騙し討ちで連れて来られた新年会】

そもそも他の連中は普通に都合をつけて来ているのに祐巳だけが当日騙し討ちの様に連れてこられなければならない理由がない。それでは祐巳が当日都合が付かない場合もあり、それは即ち「他の連中は確保したが最悪祐巳は来られなくても構わない」という事になってしまう。更にこれは些細な事だが、この時藤堂志摩子が小笠原邸に”来てしまった”事により、1年後の同じ日に催された祐巳を励ます為の新年会において一つのエピソードが描写不可能になってしまった(注1)。

1年後の新年会が収録された「くもりガラスの向こう側」は、この回の放映時には発刊されていなかったので、これを予測しろと言うのも無理な話だが、原作がこの先どうなるのか、アニメがいつまで続けられるのか分からない状況下で無理をするにはデメリットばかりでリスクを冒す必要が感じられない脚本である。1期で割愛した話を無理矢理2期の第1話に持って来た挙句にこの有様。申し開きの仕様も無い。

番外編で登場した内藤笙子がその遙か後に本編にレギュラーとして登場する事はさすがに予見出来なかっただろうが、それならそれで「妹オーディション」で登場させなくても良かった。かと思えば第四期では祐巳と瞳子の話を決着まで持って行く為に黄薔薇・白薔薇関連の話や祥子と柏木の婚約破棄などをばっさり無視し、しかし後になってまたシリーズが続く場合の保険なのか、一応話の筋を次回予告で一気に捲し立てるという大技を繰り出した。福沢祐巳しか眼中に無かった私はそれをケラケラ笑いながら見ていたのだが、考えてみればムチャクチャである。

まとめ


主人公は動かないわ、登場人物は多いわという状況下でよく1期・2期を乗り切ったなというのが正直な感想である。変数度が振れるのは祥子と祐巳がギクシャクした時くらいの低温な物語を、これといった工夫の無いレイアウトで描き続けた本作品は、アニメーションタイトルとして見れば随分と見所のない作品だった。原作から引き算をして残った部分を無茶苦茶な順番でテーブルに運び、アニメーションならではの面白さは全く存在せず、原作の面白さの上澄みでなんとか体裁を保っていたと言って良いと思う。だが、問題を解決する為に無理矢理祐巳の性格をアグレッシブにしたり、オリジナルストーリーを差し挟んだりしなかった事は英断だった。もしそんな事をしたら、この船は永遠に新大陸には到達出来なかったかも知れないのだ。

2006年11月「子羊たちの休暇」発売。新しい「マリア様がみてる」の誕生である。

注1
祐巳と志摩子と乃梨子が駅から小笠原邸に向かう際に行き方が良く分からず、乃梨子の地図を読む能力頼みになってしまった件は、割愛するしないに関わらず”志摩子が一度自力で行った事がある”という実績がある為に入れられなくなった。
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