概論
「マリア様がみてる」はこの後も少し続くが、福沢祐巳の才能はこの「クリスクロス」で完成を迎える。行き違いを続けた瞳子との関係に終止符を打った祐巳の答えと、瞳子に必要だったものがどう揃えられたのかについて、ここでまとめてみようと思う。
各論
松平瞳子のための引き出し
パニックを起こして祐巳を拒絶した瞳子。そんな瞳子を置き去りにした祐巳。一見絶望的に見える状況だが、戦況は祐巳側に傾いている。まず大きかったのは瞳子に対する”上級生然した態度”である。瞳子がパニックを起こしたあの日、祐巳は瞳子に対し初めて上から物を言っている。「パラソルをさして」の時の様な追い詰められた上での抵抗ではなく、完全に年上として命令している。
「私なんか、って卑下するのやめてくれない?」
「関係あるわよ。瞳子ちゃんは、私が妹にと望んだ人なのよ。勝手に価値を下げないでもらいたいわ」
【「大きな扉 小さな鍵」:福沢祐巳】
前述の、実際にはこれよりだいぶ後に対高城典戦で繰り出された「〜わよ」攻撃がここでも使われている。 回りくどいやり方が必要ない局面で、ただ相手を切って捨てる時に祐巳が好んで使う戦術である。
瞳子を妹候補として見ていない頃は”お客様待遇”でフレンドリーに接していたし、自分の本心に気付いた後は、公平性を影に追いやった後ろめたさからついつい下手に出た。それに対し、この日の祐巳は一切手を控えていない。瞳子は混乱していた為気付かなかったかも知れないが、祐巳が瞳子に対して上級生らしく振舞うのはこれが初めてで、こんなやり方で瞳子が気圧されるのも初めてである。そしてその初めての関係性に瞳子は居心地の良さを感じている。喧嘩の真っ最中でテンパっているにも関わらず、瞳子の本音がスムーズに引き出され、また祐巳の意向が瞳子に真っ直ぐ届くのは、この一瞬だけであった。
すぐ後に祐巳に「その場で百数えなさい」
と命令された時も、瞳子は「何故わたしが」なんて事を言わずに従った。これは「パラソルをさして」以降祐巳が祥子に対してどう振舞えばいいのかを掴んでその通りにしたように、瞳子に対して最善の対処法を身に付け、またそれを無言の内に瞳子に提示した事を意味する。ただ好きだ好きだというだけではダメで、姉として祐巳が瞳子に何をしてやれるのかを実際に見せたのだ。物別れに終わりはしたが、「こういう風にされると、あなたは楽なんじゃないの?」という祐巳の提案に瞳子が一瞬乗って、そしてそれが瞳子にとって心地よかったという収穫はあったのである。
瞳子包囲網
小笠原祥子に殲滅され二条乃梨子に救済され、目の前にはバレンタイン宝探しイベントが迫る。誤解は解け僅かな望みが瞳子の中に灯る。去年のクリスマスとは違う、良い方にお膳立てが整いつつある中で、各人が的確な判断で外堀を埋めていく様は見事である。
二条乃梨子は瞳子を炊きつけたりせず、小笠原祥子は瞳子にイベント参加の口実を与える為に、わざと挑発してみせる。この祥子の挑発が実に見事で”自分も祐巳が怖いのだ”と瞳子と同じレベルまで降りていった上で「祐巳のカードを一番先に見つけられた人が、一番祐巳のことを想っているということにはならない」
という逃げ道まで用意するという念の入れようである。この挑発が瞳子の背中を押す為の物である事を、勿論瞳子は察している。察した上で、利用させてもらう事にしたのである。
祐巳との度重なる打ち合いで瞳子の疲労はピークに達し、目論見通りとは言え次期生徒会役員選挙で生じたクラス内の摩擦が瞳子の繊細な神経をどれだけすり減らしたかは想像に難くない。その一方で、乃梨子や祥子の後押し、祐巳の見た事もない態度など、瞳子にGOサインを出す物も後を絶たない。次に間違ったらもう自分がもたない事を自覚しつつも、このチャンスを袖にする勇気も無かったのだろう。ある種の思考停止状態で、瞳子はバレンタインイベントに参加する事を決めた。
それでも状況はいい方に整っていた筈なのである。瞳子が間違わず、祐巳も間違わなければカードは松平瞳子の手に入る筈だった。
わたしはみんなのために、わたしはあなたのために
もし本当に祐巳が瞳子の事を想ってくれているのであれば、隠し場所はそこしかない。それが瞳子にも分かる。祐巳の気持ちと瞳子の気持ちが一点で交わる場所。他の誰にも辿り付けない、二人だけが分かる約束の場所。この時の瞳子の高揚感は相当なものだっただろう。もしそこにカードがあれば、もう疑いようもない。そして多分、カードはそこにある。
「残念ながらそこにはないわよ」
【「クリスクロス」:二条 乃梨子】
ここにないと知った時の瞳子はどんな気持ちだったろう。人生で最初に絶望を教えられた物に、またもや絶望を教えられる。いつの間にか背後に立っていた二条乃梨子に言われるまでもなく、白地図帳の中に紅いカードはなかった。自分だったらここに隠す。祐巳が瞳子に探して出して欲しいと望むなら、やはりここしかない。そういう予感があった。けれどもそれは自分の思い込みだったのだ。祐巳が瞳子に探して貰いたくなかったか、祐巳の隠し場所を瞳子が計り違えたかのどちらにしろ二人の絆はその程度だったのだと、観念したかもしれない。もし次のセリフが無かったら、瞳子がこの痛手から回復するまでかなりの時間を要しただろう。
「白地図って何?」
「祐巳さまと瞳子との間に、白地図にまつわるエピソードでもあるの?」
「瞳子は、祐巳さまが瞳子に探し出してもらいたくて、カードの隠し場所を選んだと思っているの?だからここに来たの?」
【「クリスクロス」:二条 乃梨子】
この言葉を聞いた瞳子は驚きはしたもののその言葉が持つ本当の意味に気づいていない。もっと穿った見方をすれば無意識下では気付いている事に気付いていない。このセリフが意味するのは
- 乃梨子は”白地図”が何かを知らない
- ”白地図”が祐巳と瞳子の間にまつわるエピソードである事の確証も持っていない
という事である。それなのに、何故”瞳子がここを探しに来る”と当たりを付けたのか。その矛盾に瞳子は気付いていた筈である。気付いていなければならない。だからこそ、”祐巳が瞳子に探して貰いたかった”という線が消えずに残るのだ。乃梨子が”白地図”のなんたるかも知らないのに、それを瞳子と関連付けられる筈がないのだから、乃梨子ではない誰かが、”白地図”と”瞳子”を関連付けたので無ければならない。その誰かは、1ヶ月半前のクリスマスに話した意味不明の思い出話をずっと覚えていてくれて、その事をつらっと乃梨子の前で口を滑らせてしまうくらい、一生懸命考えていてくれたのだ。そうでなければ、乃梨子がここにいる説明が付かない。だからこそ
「祐巳さまは、瞳子のことを大切に思っていてくれるけれど。でも、瞳子だけしか見えていないような、そんな人じゃないよ」
これが直撃するのである。
圧倒。瞳子はそこまで読み切れなかった。祐巳が白地図帳に隠すと信じ、実際祐巳も一瞬そうしかけたのに、思い止まった。公平ではないからと、参加してくれるみんなの為に思い止まった。祐巳はこの局面で自分を律し切って見せたのである。もし祐巳がここにカードを隠していたら、瞳子に想いは届いたかもしれないが、それでは瞳子は幸せに成り得ない。それはクリスマスの夜にやってしまった事である。また、もし祐巳が最初から瞳子の事を考えもしなければ、乃梨子はここにいない。白地図の名前も、社会化準備室の名前も出なかったのなら、ここに乃梨子が来られる筈が無い。
瞳子の事も、みんなの事も考える。これは祐巳から瞳子への無条件降伏勧告であった。「お前だけを特別扱いしたりはしないが、死ぬほど可愛がってやる。自分にはそれが出来るのだ」、と証明して見せたのである。
まとめ
もしここに乃梨子が来なかったら瞳子はどうなっていただろう。あると思っていた場所にカードは無く、1人社会科準備室で途方に暮れる。祐巳と瞳子が姉妹になる事は無かっただろうか。おそらくそんな事は無いだろう。また少し時間はかかったかも知れないが、祐巳が獲得した公平性は以前の物とは違う。瞳子の事を死ぬほど考えている最中でも、それを手放したりはしない。公私の両立という課題を克服した祐巳が、その事を瞳子に示す機会はまた何度と無く訪れただろう。
この物語が素晴らしいのは、福沢祐巳のパーソナリティに幅を持たせつつ、その本質を一貫して変えずに描いた事にある。瞳子の頑なな心を”私情”だけで溶かしたのでは福沢祐巳である意味が無いし、実際演劇部部長高城典はそれをやろうとして失敗している。何度でも言うが、福沢祐巳は”全体の幸福を目指す者”である。祐巳がそれを忘れずに、かつ瞳子を特別なまま”全体の中に”返してくれるのであれば、瞳子の幸福は保証されるのである。