概論
祐巳の公平性が瞳子を妹にするのを邪魔しつづけ、その公平性が失われた事でさらに瞳子を追い詰めてしまったのは皮肉である。公平でもダメ、公平でなくてもダメ。じゃあ一体どうすればいいのだ、と福沢祐巳は考える。もう下級生の中の一人とは思えない。でも妹にはなってくれない。事もあろうか次期生徒会役員選挙に立候補までされてしまって、祐巳に出来る事と言えば本当に”ただ考える”だけになってしまった。
瞳子が祐巳と出会って自分の行動原理を揺るがされたように、今度は祐巳が瞳子によって自身の行動原理を揺さぶられる。公平でいてはいけないのか、公平でいなくてはいけないのか。祐巳が瞳子とどうなりたいのかを考えると言うのは、つまりそういう意味である。
この章では、この公平性の問題を悩みに悩んだ二人の振る舞いと、二人の間に生じたズレについて追ってみる。
各論
差し出された公平性
自らの涙ぐましい努力に砂をかけられ、その場のノリで二人の関係をぶち壊された瞳子の怒りがどれほどの物だったか想像するだに恐ろしいが、だからと言って1年生の自分が選挙に立候補した所で当選する見込みがないのは分かり切っている。祐巳を蹴落として溜飲を下げようなどと考えてはいなかった筈である。これは要するに祐巳に対する意思表明だったのではないか。対立候補になれば仲良く話をしたり、ましてや妹にならないかと持ちかけられる事もない。祐巳が手放した公平性を瞳子が無理矢理取り戻そうとした苦肉の策であると考えられる。祐巳に対する絶縁状ではなく、瞳子が祐巳と関わり続ける為に必要な手続きであり、これと似た作戦を瞳子は以前祐巳に聞かされている。
「私は、可南子ちゃんと関わりたかっただけなの。勝負とか賭けとかそんな事をしている間は、可南子ちゃんは私と話をしてくれるでしょ。それが目当てなの」
【「レディ、GO!」:福沢祐巳】
対細川可南子で祐巳が使った手を、今度は瞳子が使った訳である。もっとも瞳子は「祐巳と話をしたい」と望んでいた訳ではない。どちらかと言えば牽制の楔のような物だろう。祐巳が自分に接近して来るのであれば、そうさせない様な状況に持ち込めば良い。周りの人間に対しても、現生徒会に楯突いた瞳子は「福沢祐巳の妹に一番近い生徒」ではないのだ、というアピールになる。もし万が一自分が当選してしまって残った二人と生徒会を運営する様な事になってしまったら地獄だが、それは絶対に無いと瞳子は読み切っている。ただ、釘をさせれば良いのだ。「私に構わないで下さい」「私はあなたの側に居られる人間ではないのです」と。
祐巳を拒絶するだけならこんな大掛かりな事をする必要もないのだが、いつもいつも祐巳のボディブローにカウンターを合わせる自信は瞳子にはないのだ。いつか心が折れるかも知れないし、逆に祐巳の方のダメージが酷くなる可能性もある。これは「ただの上級生と下級生に戻るための」、瞳子から祐巳への提案なのである。
選挙結果は瞳子の目論見通り、現つぼみ達の当選に終わり、祐巳の射程外に無事逃げおおせた瞳子はほっと胸を撫で下ろした事だろう。これでいい。わたしは祐巳さまに楯突いた身の程しらずの恩知らずとなった。祐巳さまも、乃梨子も、何も知らない一般の生徒も、私が祐巳さまの妹になる日はもう永遠に来ないのだと知っただろう。何も分かっていない無邪気な思惑を全て断ち切る事が出来た。そう思っていた筈である。
なので、選挙が終わった後、偶然帰り道で出くわした祐巳が「駅まで一緒に」と言い出した時、瞳子はさぞ驚いただろう。えぇっ?その辺の決着はこないだ付いたんじゃなかったのか?みたいな心境だったはずである。別れたつもりの元・恋人が、なぜか普通に「来週の休みどうする?」というメールを送ってきたよ?みたいな。「姉妹にならなくてもいいから仲良くしようよ」と言い出す祐巳の事を不自然に感じてしまうのも無理は無い。
手放された公平性
実際には、祐巳は瞳子から差し出された譲歩案に乗っていなかった。瞳子可愛さで曇った公平性が回復しつつあったのである。いや、回復という言い方はこの場合適当ではない。以前の祐巳はただどうしようもなく公平だっただけであり、それは無自覚なプログラムの様なものであった。祐巳は公平でいる事に困るような事態に直面した事がなかったので、瞳子を妹にするという課題の前で、ついその手を放してしまったのである。
それが選挙と瞳子の立候補という局面に立たされた事で、初めて意識して考えざるを得なくなった。どちらを取ればいいのか、どう在りたいのか。この二律背反する状況下で、祐巳の公平性は以前とは別のモノになりつつあった。瞳子が祐巳に一方の綱を切り落とし、残ったもう一方の綱を差し出したのに対して、祐巳はそのどちらも手放した。どちらも掴んだままでいたのではなく、両方を手放したのである。無自覚な公平性も、公平でない好意も、二人を繋いでいたそのどちらもが、結果的に二人を傷つけたのだから祐巳はもうそんな物に用はなかった。
「私、瞳子ちゃんとどういう関係になりたいのか考えているの。腰を据えて。こればかりは、焦ったって答えは出ないでしょ」
【「大きな扉 小さな鍵」:福沢祐巳】
福沢祐巳は全体の幸福を目指す。その為に必要な物を祐巳は必死で考えていたのである。
ディスコミュニケーション
瞳子は祐巳に公平性を回復してくれと望み、祐巳も一見それに応えたように見えたが、それは瞳子の勘違いであった。それは瞳子が時間を巻き戻そうと考えていたのに、祐巳は時間を進めようとしていた事に拠る。瞳子としては親密になる前の状況に時計の針を戻せれば満足だったのである。いや、満足ではないが、それよりもマシな状況を瞳子には想像出来なかったのだろう。一方祐巳はと言えば、過去に何の未練もない。口では
「私たちクリスマス以前の関係に戻れないかな」
「はっ!?」
【「大きな扉 小さな鍵」:福沢祐巳・松平瞳子】
なんて事を言っているが、詭弁である。舌の根も乾かない内に「瞳子ちゃんと姉妹になれたらこの上なく幸せに思えるだろうけれど」
なんて言っているのである。クリスマス以前の祐巳はそんな事考えてもいなかった。自分の中の松平瞳子をただの下級生に戻すつもり等さらさら無いのである。それがより一層瞳子を混乱させる。
- 「気まずい仲でいるのは嫌」
- 「無理矢理ロザリオを握らせるなんてしないから安心して」
- 「そりゃ、瞳子ちゃんと姉妹になれたらこの上なく幸せに思えるだろうけれど」
「コノヒトハイッタイナニヲイッテイルンダロウ」
余りの意思の疎通の出来なさっぷりに、瞳子が疑心暗鬼になってしまうのも無理はない。実際祐巳も考えて思いついた事を片っ端から並べているだけで、明確な答えは出ていないのである。しかし無軌道ながらも祐巳の中では、その答えは完成されつつあった。答えというか、その資格が形成されつつあったのである。
まとめ
クリスマスの惨劇を祐巳の認識不足が招いた事故だとするなら、今回の物別れは瞳子の想像力不足が引き起こした事故だった。瞳子には今より良い未来を思い描けなかった為、当然祐巳もそうだろうと勝手に思い込んでいたのである。祐巳の方は頭の中で着々と瞳子との未来を再設計している最中だったのだが、それが瞳子には伝わらない。まだその未来を口に出して説明する事は出来ないし、たとえそれを口にしたとしても瞳子を説得する事は出来ない。
二人の行き違いを正す為には、祐巳が瞳子に示さなくてはならない。自分が瞳子の姉である事を、瞳子が祐巳の妹である事を、完膚無きまでその身に叩き込む必要があったのである。