概論
複雑な想いを寄せていた瞳子の事を祐巳はどう思っていたのか。また一貫した公平性が招いた出遅れと、その後公平性を失った為に更に悪い方へ事態を進めてしまった祐巳らしくない失敗の裏にどんなすれ違いがあったのかを考察する。どちらも仕方ないと言えば仕方なく、この修羅場がなければ祐巳の公平性が完全な物になる事も無かったので、結果から見ればこれは誰にとっても必要な出来事だったのだが。
各論
塞がれた目
瞳子が祐巳との距離を付かず離れずの物にしようとあがき、周囲が瞳子を祐巳の妹にしようと画策していた時、祐巳は一体何をしていたのかというと、まったくもってサボっていた。祐巳には妹を作れない、いや、作りたくない理由が二つあったのである。
一つ目は小笠原祥子に対するコントロールの問題。イニシアチブを取りつつも甘えたいオーラを常に放出する事でお姉さまである小笠原祥子との関係を良好に保ってきた祐巳は、妹を持ってしまうと妹に対する態度とお姉さまに対する態度の剥離が大きくなる為、祥子のコントロールに障害が出る事を恐れていたのである。精神的にはかなり成熟し、その気になれば大人びた振舞いを披露する準備も整っていたのだが、今の状態があまりに良好な為に率先してその手段を変更するような事をしたくはなかったのだ。
強くならなければならない。
けれど、いつまでもお姉さまの側で笑っている、甘えん坊の祐巳のままでいる方が、自分ではずっと好ましいと感じるのだった。
【「仮面のアクトレス」:福沢祐巳】
二つ目は公平性の問題で、祐巳は全体を見て、全体のバランスを取る者である。小笠原祥子キラーとして一部にその名を馳せているが、それは祐巳のスキルの一部であって、その為に存在している訳ではない。「あなたに会う為に生まれてきた」なんてロマンチックな文言とは真逆の位置に立つ祐巳が、1年生全体の中のただ一人を特別に選ぶという行為に抵抗を持つのは「妹オーディション」でもはっきり書かれている。公平な部分だけでバランスを取る事に馴れ過ぎて、自身に加味される私的なプロフィールをノイズの様に感じていたのである。後に二条乃梨子が祐巳に
「祐巳さまは瞳子のことを何とも思っていない、って。いえ、妹として意識していないんじゃないか、って。だから祐巳さまが無邪気に瞳子の事を構ったりするのがとても嫌だったんです。……ごめんなさい」
【「くもりガラスの向こう側」:二条乃梨子】
と謝罪しているが、謝る事など一つもない。全くもって、その通りだったのだ。
祐巳は小笠原祥子との関係を良好に保つ為に、そして自身の公平性を揺るぎない物にし続ける為に「妹」という存在から目を逸らし、瞳子の事をどう思っているのかについて深く考えて来なかった。少しでも真剣に考えたなら、瞳子の中にある自分と似た部分にシンパシーを感じている事、目の前の相手に合わせて常に振る舞いを変える演技力に憧れ、それを手本にして来た事に思い至った筈である。
もっとも、この公平性は瞳子にとって都合の良いものだった。祐巳が瞳子の事を意識していないからこそ、瞳子は祐巳との距離を調整出来たのだ。時々無軌道にこっちに向かってくる祐巳を捌きさえすれば、多大な労力と引き換えにギリギリの距離を維持する事は出来たのである。
傾き始める天秤
出逢った場所が良かったのか悪かったのか、家を飛び出した瞳子が祐巳の家に拿捕されて来た事が二人の蜜月に影を落とすきっかけになった。これが通学途中や校内であればまた違った心持ちで接したかも知れないが、”紅薔薇のつぼみ”ではない、ただの福沢祐巳だった所に襲撃を受けた為に”下級生の中の一人”という認識は薄れ、危うく瞳子を抱きしめかけてしまう程である。瞳子は不用意に距離を詰めてしまった事を反省し、すぐさま家に帰ろうとするのだがもう遅い。祐巳の心の天秤は大きく傾き、瞳子が抱える事情を柏木優から聞きだそうとする始末である。細川可南子が抱えている事情を瞳子が口にしようとした時はそれを遮ったのに、である。
「可南子ちゃんが私に直接話したいというなら、聞く。でも、今の私には瞳子ちゃんに聞いてまでそれを知る必要はないんだ」
【「レディ、GO!」:福沢祐巳】
全体を幸福な方向に持って行くためなら手段を選ばない、そういう思い切りの良さが祐巳にはあるが、今回のこれは意味が違う。瞳子の事情を訊き出す事で、それをなんとか出来るとは考えていない。その事が瞳子と自分にとって重要であるかどうかの見通しもついていない。それを一応は自覚しているのだが、そもそもそんな事を思っちゃう事自体がどうかしているという事に気付いていない。猶予期間を貰って悩みに悩んで、結局柏木から聞き出す事をとりやめたのだが、この一件からも祐巳が自分をコントロール出来なくなって来ている事が伺える。
これまでの方針に従うのであれば、瞳子はしばらく祐巳との接触を絶ってクールダウンを図らなければならない。事実瞳子は唐突に招待された生徒会のクリスマスパーティーを断ろうとしたのだが、気を回した細川可南子に出席を約束させられ、乃梨子に腕を引っ張られ、その後祥子さまに引き渡されてしまうという3段コンボを決められて出席を余儀なくされる。本当は会いたいけれど、今行ったらヤバイ。分かってはいるのに断りきれない。
彼女の名誉の為に言っておくが、瞳子は本当に良く頑張った。けれどもまだたったの15歳か16歳で、家は自分のせいでバタバタしてしまって、なのに今日はクリスマスイブで。おいしいお茶を頂いて、甘いお菓子をつまんで、ちょっとだけゲームに興じて、ほんの少しだけあの人の顔を見て帰ろう、と思ってしまっても誰がその事を責められるだろう。帰り道にまたあの人がニコニコ幅寄せをしてきて困ったけれど、こんな日に少しくらい辛い気持ちを口にしたくなったって、本当にもう、しょうがないではないか。
しかしそのしょうがない事がクリティカルに決まってしまう事もあるわけで、事ここに到って福沢祐巳の方も”しょうがない”状態に陥ってしまった。自分の気持ちに気付いてしまって、周りには他に誰もいなくて、今日はクリスマスイブなのに瞳子ちゃんはとても寂しそうで、折りしもここはマリア像の前で。公平性に支配された祐巳が沢山居る一年生の中からたった一人だけを”選ぶ”なんて事は、もうこの機会を逃したら二度と出来ないんじゃないかという恐れもあったかも知れない。
「わたしの妹にならない?」
【「未来の白地図」:福沢祐巳】
それはもう、自身の最大の美点をかなぐり捨てた上で、瞳子のこれまでの頑張りに砂をかけるような一言であった。
神話の崩壊
まさかのロザリオ拒否に泣き崩れる祐巳であったが、前段で瞳子の心情を追ってみればこれは”悪い方向にお膳立てが整っていた”という最悪のシチュエーションであった。瞳子からすれば一瞬の警戒の緩みに乗じて放たれたゼロ距離からのボディブローのような物である。自身に隙があったとは言え、至近距離で放たれたそれに対して出来る事と言えば、もう相打ち覚悟で目の前の相手にカウンターを見舞うくらいしかないではないか。瞳子にとっては、祐巳が瞳子を特別扱いしない事が、二人の距離を”安全なもの”に保つ為には必要だったのだ。
この人はなんにも分かっていない、自分がこんなに気を使って、なんとか祐巳の側に居られるように必死で頑張っているのに、この人はその場の気分で簡単にそれを壊そうとしてしまうのだ。表面上は祐巳が振られた形だが、三行半を叩き付けられたのは瞳子である。
祐巳は瞳子をどうこうしようとする前に、瞳子がどれだけ頑張って今の関係を維持しようとしていたのかを知らなくてはならなかった。近付きたいけど近付きすぎてはいけない。そんな風に必死で祐巳との絆を大事にしていた瞳子の苦労を慮り、その労を労った上で、どうすれば瞳子がもっと近づけるようになるかを、二人で考えなくてはいけなかったのである。
まとめ
祐巳が瞳子の苦労を知らず、瞳子が祐巳の本心を読み違えていた為にロマンチックなお膳立ては全て悪い方に整った。どちらも責める訳にはいかないが、原因があるとすれば祐巳の方である。祐巳の公平性が瞳子に対する目を曇らせ、祐巳が公平性を失った事がこの惨劇を招いた。ここまでの快進撃ははたと止み、初めて祐巳の公平性が事態を悪い方に向かわせたのである。