概論
ここで一旦時間を元に戻して、松平瞳子と福沢祐巳の関係性に焦点を絞ってここまでの道筋を振り返ってみたいと思う。この部分を端折ってここまで論を進めてきたのには理由があって、瞳子のもって回った行動を説明する為には、祐巳の本質を明らかにしなければならず、また、祐巳が”完全な公平性”を獲得するには松平瞳子の存在が必要だった為である。
この章ではまず瞳子と祐巳の相似性と決定的な違い、そして瞳子が祐巳に対して抱いていた胸の内を考察してみる。
各論
もう1人の福沢祐巳
「チェリーブロッサム」から登場した松平瞳子というキャラクターは、ラスボスと名乗るのにふさわしいモンスター下級生であった。達者な演技で素の自分を隠蔽し、それに騙される他人を内心で嘲笑っているような少女。自身を輝かせる為なら他人の犠牲など一切気にせずに出来る事はなんでもやる。いつでもブリッ子の演技で罷免して貰えるという自信がある為、少々乱暴な手段でも躊躇なく実行に移す。
目を見張るほどの成長を見せた祐巳に釣り合うほどの変数度を持ち合わせ、初登場時の”いくら演技とはいえこれは別人なんじゃないの”という安いキャラクターから、陰湿ないじめっ子、略奪愛のエキスパート、ツンデレ、テロリスト、おしっこ、薄幸の美少女、と様々な側面を見せ付ける。演じたキャラクターもいくつかあるが、本質的に人間性の幅が広く、祐巳とは別の意味で状況対応力が優れている辣腕の刺客である。
この様に、松平瞳子と福沢祐巳はそのスペックにおいて非常に近い物を持っている。祐巳が千変万化の戦術を駆使して状況をコントロールしていくのと同様、松平瞳子は無尽蔵のキャラクターを身に纏って自分に有利な状況に持ち込む。祐巳が常に全体の幸福に目を配る視野の広さを持つ様に、瞳子もまた、全体を隈なく見張り、抜群のバランス感覚で自らの評価を上げていく。能力的には似通っているのだが、唯一違うのは持って行く先であり、祐巳は全体の幸福を、瞳子は自分の幸福を目指す。
初登場時から明確な敵意を祐巳に向けた瞳子だが、その理由に”祥子お姉さま”は含まれていない。瞳子にとって祥子は身近にあるステータスの道具であって、決して心の底から祥子の妹に納まった祐巳に嫉妬していた訳ではないだろう。可愛がってもらえるし、気品もある。そこそこの好意を持てる相手である、というだけで、瞳子は祥子の事を”いつでも潰せる”自信があった。そうする理由がないので、とりあえず取り入っておけば良いと判断していたが、精神的に不安定で人の良い小笠原祥子が瞳子の敵にもなりえないという事は自覚していたに違いない。だからこそ祥子の面前で祐巳を笑う事もやってのける。小笠原祥子に執着しない、という度量まで祐巳と共通しているのである。
瞳子が祐巳のポテンシャルに気付いたのは、恐らく「パラソルをさして」からだと思われるが、そこには自身のアイデンティティを賭けた看過出来ない事情が絡んでいた。先に述べたように瞳子と祐巳は性能的にはほぼ互角である。全体を見渡す視野の広さも、状況をコントロールしようとする積極性も持ち合わせている。むしろ才能を開花させ始めたばかりの祐巳よりも百戦錬磨の瞳子の方が最初は優位に立てていた訳だし(だからこその「レイニーブルー」である)。
にも関わらず祐巳の周りというか境遇は、豪華であった。まず紅薔薇のつぼみに収まっていること。周りに気の置けない友人がいて、上級生には可愛がられ、下級生には慕われている。最初おっちょこちょいで天真爛漫であるだけに見えた祐巳がこれだけの環境でいつもニコニコ楽しそうに暮らしている所を見たら、ちょっといじわるしてみたくなる気持ちも分かる。実際の所瞳子が祐巳に対して深謀遠慮を張り巡らせて窮地に追い込んだという事実は無いのだが、目障りというか、納得が行かない感じだったのは間違いないだろう。二人は共に、同じ物を手に入れられそうな鏡合わせの関係である事が以下の表で良く分かる。
福沢祐巳 | 松平瞳子 | |
---|---|---|
学校内のステータス | 紅薔薇さまの妹(どういうわけか) | 紅薔薇さまの妹のようなもの(親戚だから) |
周囲からの好意 | 良好(どういうわけか) | 良好(演技により) |
上級生からの受け | 良好(天然ボケだから) | 良好(演技により) |
下級生からの受け | 良好(親しみやすいから) | なし(一年生だから) |
アレーッ?てなもんである。なんだろう、この似た境遇に収まっているのにその理由の甚だしい格差は。こんな何も考えていない様な人間と、気を抜く暇も無く周囲をコントロールする努力を怠らない自分が、どうして同じ様な位置にいるのか、それはもう納得いかなくても仕方ない。
福沢祐巳に対する庇護欲
そんな風に訳の分からない理屈で上手くやっている祐巳が癇に障りつつも、瞳子は祐巳に対して明らかに放っておけない素振りを見せる。祥子と絶縁状態にある祐巳にヒントを差し出してみたり、なんやかんやと請われるままに生徒会の手伝いをしてみたり。世に言うツンデレであるが、その理由は恐らく自分に似た境遇にある祐巳に対して、ある種親近感のような物を覚えていたのだと推測される。それはつまり”資格の無さ”である。
大して高いスペックを持ち合わせている訳でもないのに何の因果か小笠原祥子に見初められて生徒会に引き込まれた祐巳の境遇は、正当な資格も持ち合わせていないのに数奇な運命に導かれて松平の家、ひいては小笠原の末席に座る事になった瞳子の境遇に良く似ている。松平瞳子が自身の出生の秘密を知った後、どれだけ必死にその席に相応しい人間たろうとして来たか、どれだけ周囲に対してプレッシャーを感じていたかは後に明かされるが、この時点で瞳子が祐巳に対して好意を持つとしたら、そこだったのではないか、と考えられるのである。
ひょんな事で自分がいるべき場所から別の華やかな場所に連れ出された者の苦労は、小笠原祥子にも従兄の柏木優にも分かりはしない。祐巳の辛さを分かってやれるのは瞳子だけであり、瞳子の辛さを分かってくれるのは祐巳だけなのかも知れない。そんな予感が、瞳子の足を祐巳のいる場所へと向かわせた原動力だったのではないか。だとするなら、「レイニーブルー」で祥子から逃げ出した祐巳に対して許せない程の憤りを感じた理由もしっかりと腑に落ちる。私は逃げられないのに、必死で立ち向かっているのに、どうして貴女だけそんな事で簡単に逃げてしまえるのですか、と、瞳子は言いたかったのかもしれない。
ル・マン24時間耐久レース
自分と同じような性能なのにエンジンの駆動原理は全く違う。祐巳は自分の為に動いている訳でもないのに、それ以上に報われていく。もしかして自分はアクセルを目いっぱい踏みながら見当外れのコースを周っているのか?そんな考えを必死で否定したかったのかもしれない。似たような境遇の先輩である瞳子としては、自分と違うロジックで結果を出す祐巳を否定したい気持ちと、彼女が幸せになる事を望む気持ちがせめぎ合っていたのだろう。なんであれ見届けなければならない。
自分が間違っていたのか、それともたまたま上手く行っているだけで祐巳の方が間違っているのか。もし祐巳がクラッシュしそうになったら、自分はどうするつもりでいるのかも分からないけど、とにかく見届けなければならない。瞳子は自分が祐巳の敵なのか、同じチームのドライバーなのかも決めかねたまま、とにかく走り続けたのである。
しかし「パラソルをさして」で自身のポテンシャルを引き出し始めた祐巳は、瞳子の焦りや心配を気にも留めずに時々こっちに向かって手を振ったりクラクションを鳴らしたり、あまつさえもう疲れてレースから降りようとしている瞳子に笑いながら幅寄せして来たりするのだ。改めて書いてみると酷いな、コレは。
いつの間にかペースを握られ、出来る事と言えば時々愛らしい悪態をつく程度。「子羊たちの休暇」から「薔薇のミルフィーユ」までの間、松平瞳子はハラハラしながら”別荘地のアホタレ”や”ストーカー細川可南子”を祐巳が平定していく様子を見守るしかなかった。同じ車で違う場所を目指す福沢祐巳は相変わらず癇に障る人だけれど、笑いかけられると嬉しい、側に居ると楽しい。けれどもそんな事は認めるわけにはいかない。それを認めてしまったら、これまでの自分がしてきた事が間違いだった事になってしまう。
もう、こいつに勝つのは諦めよう、と、この当時の松平瞳子は考えていたかも知れない。自信のアイデンティティを保ちつつ、祐巳を見守れる距離を維持するために慎重にスケジュール管理を行っている事が、表にしてみると良く分かる。
イベント | 出欠 | 備考 |
---|---|---|
別荘地でのバカンス 【子羊たちの休暇】 |
○ | 意地悪なお嬢様達が祐巳にちょっかいを出さないか心配だった【「大きな扉 小さな鍵」】 |
花寺学院学園祭準備 【「涼風さつさつ」】 |
× | 細川可南子が嫌いだから、と本人は申告 |
リリアン女学園体育祭 【「レディ、GO!」】 |
○ | 細川可南子に甘い祐巳に進言。フォークダンスでわざわざ男側の輪に参加 |
リリアン女学園文化祭 【「特別でないただの一日」】 |
○ | 賭けに負けた細川可南子が祐巳の手伝いをさせられる事を知って押し掛け手伝い。当日も祐巳を案内する |
妹オーディション 【「妹オーディション」】 |
× | オーディションのみならず、この巻一度も祐巳と接触せず。 |
押し掛け遊園地 【「薔薇のミルフィーユ」】 |
× | 柏木優からの誘いを辞退。 |
体育祭、文化祭と細川可南子を牽制する為に接近しすぎた事を反省し、妹オーディションと次の遊園地では、完全に祐巳との接触を絶って外野の口さがない雑音を下火にさせようとする。祐巳の無軌道な接近と周囲や乃梨子のお節介に突き上げられながら、祐巳との距離を一定にしてなんとか自分のささやかな幸福を守ろうとしている様がいじらしい。
まとめ
登場当初瞳子が祐巳に対して複雑な態度をとってしまった原因は、二人が良く似ていたからだと考えられる。行動原理だけが違う祐巳が幸せになるのは複雑な気分だが、似た境遇であがく先輩としては、祐巳がその事で傷ついたり悲しんだりして欲しくない。相手の幸せと不幸せを同時に願ってしまうような、屈折した心理が瞳子にそう振舞わせたのだろう。