色々理由はあるが、ある漫画家のアシスタントを辞めた最大の理由は「壁に線を入れて描いてくれ」と言われた事にある。その次の理由は通勤にかかる時間がべらぼうに長かった事だろうか。とてもきちんとした職場で、常勤アシスタントとして一番長く続いた現場だったが、その一言がきっかけとなり、結局こちらから辞める事になった。
「壁の線」との戦いが始まったのはいつ頃だっただろうか。「壁の線」とは、壁のパースに沿って定規で直線を入れるやり方に代表される「ペン線による面の表現」全般を指す勝手な造語だが、これはかなり早い段階で捨てたスタイルだった。スクリーントーンのスキルが上がるにつれて「ないものは描かない」という事を意識して行うようになり、背景における「線」は「明度差」に置き換わって行った。ベタの領域と何重にも重ねて貼られたトーンの陰影が自分にとっての世界を表現する為のツールであり、鉄やコンクリートを表現する為に頻出する「ランダムな直線の束」は、せっかく積み上げたリアリティを破壊する無遠慮で迷惑な客としか思えなかった。「壁のどこにもそんな線はない」という事実が、それをスポイルする根拠となった。奇しくも週間連載時に外注のアシスタントが仕上げてきた背景を見て「壁に線を入れないでくれ」と伝えた事があったが、今考えると出来すぎた伏線だったとも言える。
しかし線(タッチ)を使わずにトーンによる陰影で表現するのは随分と手間が掛かる作業であり、また貼れば貼るほど他の部分も釣り合う様にしなくてはならなくなる為、仕上がりをコントロールするのが難しくなったのも確かだ。何より境界線の見えないアングルの壁(主人公のアップの後ろに壁の「面」だけが見えているような状態)では、平面を出せない(出すのに凄い手間が掛かる)という問題が生じた。その手段は使わないと決めて描き続けつつも、いつもそっちの道筋も気になっている。「壁の線」は時には隣の芝生の様に、あるいはすっぱいブドウのように意識の隅に悶々とあり続けた。
それがアシスタント先で言われた一言をきっかけに噴出することになったわけだが、もちろんこちらは雇われている身なので、クライアントの要求には応えなくてはいけない。分らない事、迷った事があればその都度相談し、休憩時間にも何度もディスカッションを交わし、他のアシスタントとも意見を交換した。……したのだがフォーマットが決まっておらずその法則性すら見出せない作業は難航を極めた。この辺は口で説明するのも難しいが、線の間隔、太さ、長さ、そして何より角度がちょっと違うだけで、意図したものが表現されず、しかもそれがケースバイケースで決定される為に、系統だてて把握出来ないのだ。
この頃には「壁の線」に対して少し歩み寄り、「あぁ、こういうのもありだし、有効だよな」と考えるようになった。自分の原稿に使う気にはなれなかったが、たしかに(慣れた人間がやれば)速いのだ。メリットがある事は納得したものの、生来の不器用さと訓練不足からフリーハンドで狙ったところに線を入れられずままならない日々が続いたのと、やはり自身の絵を求められていない事のストレス、及びhtmlの勉強に時間を割きたくなった事もあって、「壁の線」通告から1ヶ月くらいで辞めさせてもらった。
しかしその後もこの問題はくすぶり続け、喫茶店で折にふれて壁や柱に線を入れる練習を行う日々を悶々と続けていたが、1年以上経ってその問題に解決の糸口というか、何が問題だったのかが見えてきた。
光明をもたらしたのは「よつばと!」である。
(続く)