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漫画における記号と翻訳(2)

作成年月日
2005年09月06日 03:58

よつばと!」を最初に読んだ時に驚いたのは、その面白さや漫画文法のレベルの高さもさる事ながら、大ヒットした「あずまんが大王」とは違うタッチで背景が描かれている事だった。愛嬌のあるキャラデザインはそのままに、後ろの部分はこれまでと正反対のアプローチ、ペン線による質感、陰影の表現にトライしてきたのである。

そういう絵が描けるアシスタントを探してきたのか、そういう絵を描ける様に教育したのかは分らないが、特に1〜2巻のあたりでは上手くいったコマとそうでないコマが同居していて、それが簡単な作業や思いつきで無かった事が窺えて面白い。そして結果はどうあれ、どのコマにも明確なヴィジョンがあり、それを紙の上で表現する事に全力で当たった事が見て取れる。

こう書くと失敗だらけのような印象を与えてしまうかもしれないが、その失敗というのは恐らくあずまきよひこ本人のヴィジョンを100%体現せしめるに到らなかった、という意味であり、夏の強い日差し、顔や地面に落ちる濃い影など、この作品に無くてはならない要素は十分すぎるほど高いレベルで表現されている。ただ、コマ毎に最適な表現を模索して安易なルーティンワークで処理しない厳格さが、より一層本来望んでいたヴィジョンの高さを窺わせるだけなのだ。

そしてこの厳格さは、ある事実を明確に物語る。ルーティンワークで処理されていないという事は、この「壁の線」は記号ではないのだ、と。

ここまで「壁の線」に関して「記号」というカテゴライズを避けていたが、これを記号として扱っている人は多い。コンクリートだったらこう、鉄板だったらこう、という風にテクスチャの一種であるかのように自動的にタッチをいれて表現していく方が普通である。どんなものをどんな「掛け方」で表現するかは個人によって全く違うので、そこを統一しないと画面の印象がページごとにバラバラになってしまう。そしておそらく自分が最初に意識したサンプルや、外注アシスタントが入れて来た「壁の線」がただの記号だった為に、自分も「壁の線」を「記号」として認識してしまったのだろう。しかし本来「壁の線」は記号ではなく、目に映る映像をペン画に「翻訳」したものだったはずなのである。

ミルトンの「失楽園」の挿絵(銅版画)や、伊藤彦造のイラストレーション。漫画で記憶に新しいところでは田中政志の「ゴン」など、立体をペン線の細かい重ね合わせで表現していく様式が基本となる出発点であり、単位面積あたりの線の本数や重ねる回数を任意に変更することで、よりシンプルなタッチが作られたのだろうと思う。ペン画は記号で描かれている訳ではない。線の集合ではないものを、線の集合という様式に翻訳する為に無限のバリエーションの中から最適な線を拾って重ねて行った結果生まれるものだからだ。

その様式からさらに必要最小限の線だけを拾い出していった結果が、今ある「壁の線」の元だったと思われる。漫画でポピュラーなカケアミという技法も、元を正せばそれ単体で存在した模様だったわけではなく、陰影の一部、面の傾きによって重ねる角度が変化するシークエンスを本体から取り出して記号化して扱えるようにしたものだと推察出来る。

カケアミの角度を始め、この辺りの話が前回書いたアシスタント先で議題になった時、その先生と自分の間で交わされたコミュニケーションが不完全だった理由が今なら分かる。向こうが要求していたのは「無段階の階調で表現された平面や陰影を」「精密な線の重ね合わせで表現された立体に翻訳したあと」「さらにその中から本質的な1〜2方向の線だけを拾い出して」「なるべく少ない本数でタッチを入れるんだ」という作業だったのに対して、壁の線が記号だと思っていた自分は「どうして同じ向きの面なのにコマ毎に掛ける方向が変わっちゃうんですか」とか「どうしてこの線はここが正解で、こっちだとダメなんですか」とか、記号だと思ってるものにまるで法則性が無い事が理解できなかったわけだ。

やがて向こうの意図している事が、良くは分らないがとんでもなく高度なことなのだと察しがついても、無段階の階調をトーンの重ねや削りでほぼ無段階に出力していた自分には階調を線の重ね合わせに翻訳するスキルはどこを探しても無かったわけで、結局相手の言う事も自分がそれを理解出来ない訳も分からないまま、その職場を後にする事になった。その先生の要求する線の拾い出しがとてもシビア(少ない本数)であるのに対して、「よつばと!」の方は幾分多めの線で表現されている為、拾い出す前の精密なイメージと結びつき易く、そのおかげで世の中には自動的に付加された記号としての「壁の線」と、具体的なイメージを翻訳し抽出した結果残された表現としての「壁の線」がある事に気が付く事が出来た。

こういう話を例えばおがわさとしさんにしてもきっとピンと来ないだろう。おがわさんはこの「翻訳→抽出」という作業を驚くべき的確さで出来てしまうので、俺が何に驚いているのかさっぱり分らないのではないかという気がする。昔々、話の流れは忘れたが漫画の話をしていた時に彼(という呼び方も失礼だと思うが)の前で「えーと、なんていうか俺は目に見えないものはなるべく描きたくないんですよ」というような事を言った事があった。それに対しておがわさんは割と楽しそうに(それは記憶の改変かもしれないが……)「見れば分かる」というような返事をしていたような、違ったような……。とにかくそういう他愛も無い話を交わした事があったのだが、今思い返すと随分間が抜けた事を言ったものだと思う。

おがわさんも目に見えないものなど一つも描いていなかった。目に見えているものだけを描いていたのだと、今になって思い至る。(いかん、なんかいい話な気がしてきて涙が出る)

「漫画を描かなきゃ」というメンタルを放り捨て、一切ネームを切らない生活を送っていても、漫画について考える事は切れ間なく出てきて、漫画に教えられることも途切れなく現れる。