現在我が家で稼動しているゲームソフトはPS2用アクションアドベンチャーゲームの「大神(おおかみ)」だ。発売当初からあまりメディアに露出はしなかったが、独特のグラフィック表現や”筆しらべ”というアクションの面白さからゲーマーの高評価を獲得して、先日ベスト版として再発売されたソフトである。ちなみにこのソフトを作ったクローバースタジオはこの「大神」リリース後に親会社であるカプコンの決定により解散させられている。
なにせこの「大神」というゲームソフトを悪く言っている人間を探すのが難しいくらいにこの界隈での評価は高かったのだが、自分としてはちょっと色々言いたい事が残る微妙な出来のゲームだった。ストーリーも面白く、ビジュアルの斬新さやキャラクターデザインの面白さ、和風テイストで統一された膨大な数のBGM等、作り込みのレベルは相当な物である。アナログスティックを使って描く記号でオブジェクトの状態を制御する”筆しらべ”というシステムも、ただのコマンド選択では味わえないスリルがあって面白い。通り一遍にプレイするだけなら全く文句の付けようも無いくらいに良く出来たゲームなのである。
にも関わらず個人的には、このゲームをプレイしている時間の大半は「苦痛」だったのだが、それは全編に渡って浸透している”自由度の低さ”が俺を苛つかせたからである。”筆しらべ”という一見なんでも出来そうなファジーな入力スタイルを創造していながら、その使い方と使いどころは完全に決められている。様々な筆しらべを自由に選択して活路を開いていくゲームなのかと思いきや、局面局面を打破する場面では製作者が設定した”手順”を推理し、それを完璧に再現しなくては一歩も前に進めないのである。
- ここでは「一閃」で斬らなくてはいけません
- ここは必ず「桜花」です
- 壁を登れるのは「壁神の像」がある場所だけです
あらゆる謎解きは決まった筆しらべを用いなくてはならず、自由な発想などは一切受け付けない。壊れるオブジェクトや移動出来るオブジェクトは決まっていて、それ以外の行動は許されない。その不自由さはアドベンチャーパートだけでなく、普段の戦闘においても徐々に顕著になってくる。敵には筆しらべが全く効かない時間、通常攻撃が全く効かないフェイズ等が設定され、相手の行動を待って必要な時に、必要なアクションをしなければただの1mmもライフゲージを減らせなくなってくる。初めて遭遇した時にはその手順を探り、実践するのが謎解きとしての醍醐味をもたらすが、手順が分かってしまえばそこから先はただ決められた手順を繰り返すだけになる。道場に通い、様々なアクションを体得しても、それを駆使して戦うフェイズは指定され、そうする為には相手の尻尾に火がついたら「紅蓮」でカマクラを溶かしてからとか、「霧隠」で時間の進みを遅らせてからと言った手順を踏まなくてはならないのである。(唯一こちら同様”筆しらべ”を使ってくる敵との対戦は心底楽しめた。この能力を全妖怪に付与してくれと心の底から願ったくらいである。)
そういう風に様々な選択肢が用意されているにも関わらず、最適解は明確に決まっていてそれ以外の方法を試す事すら許されない場合が多い。マップ上でも、戦闘シーンでも、正しいやり方は一つだけなのである。入手できる武器は後から手に入れた物の方が必ず高性能で、アイテム毎のメリット、デメリット等は存在しない。15種類ある武器も最終的には3択×2になってしまう為、プレイスタイルの幅がとても狭いのだ。
ゲーム中に用意されたミニゲームの数々(釣り、レース、穴掘りゲーム)も面倒臭いだけで腹の立つ物が多い。何の記事に書いてあった文章かは忘れたがゲームの定義とは「入力したものより面白いものが返ってくる物」なのではないか。魚の向きに合わせてアナログスティックを左右に動かすだけの動作を延々繰り返させられる作業に何の楽しみがあるというのだ。
「自由度」というのは俺にとってはとても大事なものである。以前絶賛した「ワンダと巨像」(参照:「SONYの光と影」)のスーパープレイ動画を先日観たが、いやぁ、ビックリした。このゲームも敵を倒す為の手順は決まっていて、ここに登ってここを刺して、次にこっちに行ってこう来たらこうして、とミッションを成功させるための最適解は一つの様に見えるが、その動画では主人公のワンダが全巨像相手に見た事も無い様な手段で。弱点部分まであっと言う間に取り付いていたのである。ゲーム中の全ての”作業”行為を排除し、クライマックスの興奮だけを詰め込んだ「ワンダと巨像」だが、それでも敵の弱点に辿り着くまでの最適解を”面倒な手続き”(そこに「興奮」と言う名のレスポンスがある限り俺はそれを”作業”とは思わないのだが)と思っていた人も多かったと思う。しかし、何という事だろう。何度も繰り返してきたそれは最適解では無かったのである。この事実を知り改めて「ワンダと巨像」の”ゲーム度”に感心したのだが、それは余談だな。
そういう訳で、ケチョンケチョンに書いてきた「大神」だが、じゃあこれはクソゲーなのかというと、全然そんな事はない。楽しみ方の問題である。このゲームはグラフィックと謎解きとキャラクターを楽しむ事に専念した方が身の為である。「はぐれ珠」とか「動物図鑑」とか「魚図鑑」といった「さぁ、君はコンプリート出来るかな?」と囁いて来るアイテムはあえて無視し、お金や妖怪牙を集めるのも程ほどにしておいて、必要最低限の戦闘とお使いで一気にエンディングまで辿り着くべきである。やりこみ要素やサブイベントは山の様にあるが、そこでシステムに習熟してしまうと普段の作業が段々苦痛になってくる。”筆しらべ”というインターフェイスが目を惹く為、なんとなく何でも出来そうな気になってしまうが、それは大きな勘違いだ。これは完全な一本道ロープレであり、ストーリーを追う読み物なのである。
読み物としてみた場合、この物語はなかなか印象に残る出来である。アニメに良くあるお約束の演出をきちっとこなし、クライマックスの盛り上がりと読後感は満点に近い。これまた余談だが、今日娘(4歳)にせがまれてラスボス戦をやって見せた際、なんといい所で彼女が嗚咽を漏らし始めたのである。驚いて娘の顔を見ると、目に涙を浮かべ、しゃくりあげながらじっと画面を見続けている。セリフは独特な効果音声と字幕表示に拠っているので、ここに到るまでの長い道のりを横で見続けていた彼女が、物語のすべてをキチンと把握しているとはとても思えないのだが、ちゃんと盛り上がる場面で感動して涙を流しているのである。別に悲しい場面では無いので、これは「演出にやられて」いるのだろう。毎日毎日山の様にアニメやゲームを観ている彼女が初めて流した感動の涙である。
「大丈夫だよ、お父さん勝つからね」
と言うと
「うん」
と答える彼女を見て、あぁ、架空の物語に感情移入した上に悲しくもないところで涙を流す段階に来たのだな、と感慨に耽った。人間は正しく進化の末端にいるだけの、他の動物と何ら変わりない存在だが、恐らくこれが出来るのは人間だけである。肥大した大脳新皮質が生み出す高度な抽象化と、そこから神経細胞を駆け巡る化学物質に耽溺して涙を流す事が出来る動物。おそらく全ての物書きがこの反応を求め、全ての読み手がこの反応を期待したいと願っている筈だ。幾つかの物語はその反応を呼び起こし、残念ながら多くの物語はそこまでは至らない事が多いこの瞬間を、彼女は「大神」というゲームソフトによって初めて体験したのである。
そういう訳でこの「大神」は、彼女にとっても、その瞬間を目撃した俺にとっても大事なゲームソフトとして記憶に残る事だろう。ひとつ残念なのは、未クリアの為隔離していた女房にはこの瞬間を見せてやれなかった事である。いや、本当に申し訳ない。だって4歳児がゲーム見て泣くなんて想像もつかねぇよ。