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漫画は何を表現しているのか−フェティッシュに関する考察−

作成年月日
2007年04月30日 20:16

漫画を描くのはもうやめよう、そう思った事は過去2回。多いのか少ないのか分からないが2度ともやめられなかった。どうしてやめられないのだろう。1度目の時はその理由が分からなかったのだが、今回その事に思い至ったのでここに書き記しておこう。

実は今回はいけると思っていたのである。積極的にやめる必要は無かったのだが、他にも面白い事は沢山ある。背景画(カラー)・html・エレキギター。どんな事でも学ぶ事は多く相応にやりがいもある。全ての創作活動の根本にある物は同じで、ただその表現様式が違うだけなのだと考えて来た。それなら別に漫画に拘泥する必要も無い。漫画というのはツールの一つであって、表現する手段である。自分の場合は伝えたい事があり、それを表現する為の物語が必要となったので、その物語を具現化する為の手段として「漫画」という様式を選択した。「他のでもいいけど、とりあえず漫画が一番都合がいいので」。それが自分と漫画の関係だと思ってきたのである。けれどそれは欺瞞だったと、今認めざるを得ない。小説でもダメ、映画やアニメでもダメ。漫画でなければ満足出来ない。それは何故かと言うと、要するに自分自身のフェティッシュ(性的嗜好)に100%忠実になれるのが漫画しかないからだったのである。

フェティッシュとは個人的な嗜好であり、異常に執着・愛好する対象の事で「細い足首が好き」とか「妹じゃなきゃダメ」とか「ちょっと太った人がいい」とか「やっぱりオッパイはDくらいがいい」とか、そういう嗜好の傾向を差す。これらは大抵「そうであれば嬉しいが、そうでなくても実害はない」という程度のものである。妹属性の人間だってちゃんと赤の他人と結婚出来る。もしこれが代替出来ない程強制力があって、しかもそいつに妹が居なかったらもう絶望するしかない。(居たらそれはそれで大変だろうとは思うのだが)。そして漫画と言うのは実に描く者のフェティッシュを赤裸々にするのである。何故ならそこに描かれた物はすべからく「ここにあって欲しい」と願われた物だからだ。

松本零士の描く女性キャラクターの睫毛が長いのも、原哲夫の描くキャラクターが筋肉質なのも、萩原一至の原稿にトーンがいっぱい貼ってあるのも、榛野なな恵のキャラクターの頭がみんな白いのも、全部描く者の「こうあって欲しい」という願いを具現化したものである。よく「個性」という言葉で語られるがこの個性は持って生まれたものではないし、他の絵が描けないから発生した物でもない。自分にとって「好ましいもの」の純度を上げた先にある物である。その証拠にこのフェティッシュは現場では実に細かい所まで行き渡っており、影の付け方、カケアミの間隔、ベタフラッシュの抜き加減に到るまでありとあらゆる所にその作法が存在する。「漫画における記号と翻訳(1)」で触れた「壁の線」問題も、要はフェティッシュの衝突だったのである。

漫画がストーリーを伝える為のツールであるなら、このフェティッシュにはこだわる必要が無い。睫毛が短くなろうと髪の毛にベタを入れようと、壁に線を入れようと話は同じ様に伝わる筈である。ところが実際は商業誌で連載している人間であろうと、同人活動を始めたばかりの人間であろうと、そこに対するこだわりは相当なものである。タイトなスケジュールとアシスタントの給料という制約があるにも関わらず、他人から見たら”ささいな部分”を何度も手直しさせるプロ作家の方がこだわりの度合いが強いと言えるかもしれない。「読者が喜ぶモノを描くのがプロ」と言うようなセリフを耳にする事があるが、そんな部分は物語には関係ないし、編集者も気にしない。なのに寝食を削ってでも自分の好みで原稿用紙を埋め尽くす事に躍起になっているのである。

木尾士目の「げんしけん」7巻で、ホモ漫画をこっそり描き続けて来た荻上というヒロインが同人誌即売会参加当選の知らせを前に「この私の恥ずかしい妄想を……形にして世に出すの……?」と不安を漏らすシーンがあるのだが、性描写の有る無しに関わらず、漫画というのはそういう物である。ひとりひとりのキャラクターが、セリフが、街の風景が、全て作者の「俺はああいうのじゃなくて、こういうのが好きなんだよ」というフェティッシュによって生まれ出た物なのだ。そして多分、漫画を好きで読む人間はこのフェティッシュに共感できるか否かを、読む作品を選ぶ際の基準の何割かに充てている。ストーリーや画面を埋め尽くすオブジェクトの向こうに、著者のフェティッシュを垣間見てそれが自分にとっても好ましい物であった場合、その漫画が好きになるのである。

だから、漫画を実写ドラマ化した場合はもう完全に別物である。ストーリーやキャラクター設定を拝借しても作者のフェティッシュは移せない。登場人物の容姿も、背景の密度も全て「この世にある物で代用しているだけ」なのだから、原作が提示したフェティッシュに惹かれた人間にとっては用が無い代物に生まれ変わるだけである。「自分の望む物以外は画面に存在しない」漫画という表現形式は意識的か無意識的かに関わらず、描く者のフェティッシュを赤裸々に暴き出し、それを読者に突きつけるのである。「俺はこういうのがたまらなく好きなんだけど、君はどう?」と。漫画は物語を伝える為のツールに過ぎないと見当違いの事を抜かしていた俺はとんでもない愚か者であった。このある意味下世話な「よう、あの女どう思う?」みたいなフェティッシュの告白が漫画の醍醐味だと、今は思い直している所なのである。

ちなみに俺のフェティッシュを書くと

と、こんな感じになる。このフェティッシュを出来る限り詰め込んで、それを世に問う為に漫画を選び、漫画から離れられないのである。