紹介するのがだいぶ遅れたが「子供にゲームをさせよ論」
何故子供がゲームに向かうのか、ゲーム性とは突き詰めると何なのか、ゲームに学ぶべき事は何なのかという事を明快に記述したコラムだが、これがなるべくならゲームを子供から遠ざけておきたい親達にとって非常に示唆に富んでいる内容である事がまた痛快だ。
「クソゲーと云えば…たくさん褒めてくれるゲームであっても、クソゲーと呼ばれて、子供が見向きもしないモノがあります。それは『ルールがはっきりしない』モノです。褒められたんだけど、なんで褒められたのかわからない、とか、さっきは褒められたのに、今度は褒められなかった、という類のモノですね。子供は不公平に扱われるコトに対しては敏感ですから、こうしたモノは好みません。最近では少なくなってきましたが、昔はこうしたクソゲーがたくさんありました。
「お母さんお父さん方、その日の気分によって叱り方や褒め方を変えてはいませんか? それではまるでクソゲーと一緒で、叱っているコトにも褒めているコトにもなりません。むしろ、子供を混乱させるだけです。そうした態度を取れば取るほど、子供は、良く出来たゲーム、つまり『ちゃんと褒めて、ちゃんと叱ってくれるゲーム』に向かうコトになるでしょう。
本文ではあえて「子供」という対象に限定しているが、子供と大人の間に快・不快の差はない。大人だって褒められれば嬉しいし、理不尽な事で怒られれば腹が立つ。人間が進化の中で発達させてきた快感神経システムが他の動物と自身とを分ける大きな特徴であるのならば、褒められる機会が多く、ペナルティを受ける時は公正にという理念は良いゲームの条件というだけに留まらず、もう一つ二つ外の枠組みに対しても適用するべき物の筈である。
先のコラムで語られている事はあまりに当たり前で、実践できている人にとっては言われるまでもない事であり、そうでない人にはその効果の程を確かめる機会も訪れないほどささやかなポリシーである。
けれども実はこんな身近な所でそのポリシーは具現化し、その効果の程を実証し続けている。世界中の居間や子供部屋で行われているのは決してくだらない娯楽でも残酷シーンを売りにした洗脳でもない。
ゲーム機は公正さが高速に繰り返される装置である。人間の行動原則、快感原理にフィットするべく調整され、試行錯誤を続けるテストケースとも言える。ここからフィードバックされる大量のデータから学ぶべき事が無いわけが無いし、それを唾棄すべきものだと決め付けるべきでもない。
人間を夢中にさせるものから何も学ばずに、幸福な社会など作れる筈がないのである。