子供が産まれた時に何が嬉しかったと言って、これで人間に関わる謎の幾らかに対する回答をこの目で確かめられるだろうという事が嬉しかった。……と言ったらいつか娘に怒られるだろうか。それは主に、先天的なものと後天的なものがどの位の割合で個人の振る舞いを規定するのだろうという、生物行動学に関した事柄についてだがこの辺に関しては概ね当初推論していた通りの結果が得られた。子供がこちらを見て筋肉の弛緩ではなく、初めて確固たる意図を持って笑った時には、情緒的な幸福感も凄まじかったが、それに付随して「あぁ、笑うという行動はやはり先天的に用意されている行動なのだ」と証明された事にも興奮した。
あらゆる社会的抑圧と科学的に不確かな都市伝説を排除した我が家では、子供の振る舞いはかなり生物行動学に即した発達を遂げつつあるが、それでも時折りこちらの想像を超える事もある。
昔ひょんな事から手品を学んだ事があり、それを娘に披露すると事のほか喜んで貰えるのだが、勿論それは最近になってからの事だ。手品は「こうなったはずだ」という推論と違う結果に驚かされるモノなのだから、その推論という行為が出来ないうちは驚きも何もない。赤ん坊特有のボヤーっとした頃から度々コインの手品を見せては、これと言った反応を示さないのを確かめて「うんうん、まだ世界はあるがままなんだね」と、自分の予想通りの結果に満足したりもしていたのだが、最近論理的にか経験的にか、未来を予測するようになった娘は右手から左手に移した百円玉が左手の中から消えている事に驚くようになった。これも勿論予測されていた事だ。未来を予測できるようになれば手品は不思議なものである。
ところがここで少しだけ、予測していなかった事が起こる。コインの手品が気に入った娘は自分でもお金を持って右手から左手に移し変えて、その握った左手を開くのであるが、そこで「百円玉が消えていない事に」驚くのである。驚くというか、「なんでまだあるの」と言わんばかりにとても不思議そうな顔をする。
そりゃあるよ。持ち替えただけなんだから。
右手から左手に移したコインが消えている事に驚くくらいには定着しているものの、父親と同じ事をしたのにコインが消えない事にも驚けるくらいのコモンセンスなのである。
恐らくこの時期はそう長くは続かない。物理法則は確かな確証をもって彼女の中に浸透して行き、いつか試しにコインを握る事をやめる日が来る。それでもまさに彼女が見せてくれたように、何年生きていても驚かされる事は起きる。良い意味でも悪い意味でも、予測や期待は裏切られる。親としてはその事をいつまでもいつまでも、楽しんで欲しいと思うのである。