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星を継ぐ者(祝祭)

作成年月日
2005年11月06日 17:00

ジャブロー脱出後から物語は更に加速し、画面はより一層華やかになる。アムロ=レイが輸送機を奪って飛び立つシーンからスクリーンはほぼ新作カットで埋まるのだが、「使える所はそのまま使う」というルールに従えば、これ以降はテレビ版のフィルムを流用できる部分の方が遙かに多い。にも拘らずほぼ全カット描きなおされているのは、このクライマックスが「圧倒的にカッコよく」なければ意味を成さないからである。

このクライマックスに到るまでの間、どのキャラクターもセリフが吟味され改変されているのだが、シャアのセリフは特に慎重にその言い回しを変えてあり、余裕が無かったり、みっともないと思われるような部分は全てカットされている。またカミーユは目の前の人物が実はシャア=アズナブルであると知った時に「この人があの伝説の……」と目を輝かせてもいる。(ちなみにテレビ版では卑怯呼ばわりをしてぶん殴っている)

テレビ版の「Zガンダム」は誰彼構わず自身の苛立ちをぶつける主人公と、それを上手く受け止められない大人たちの物語だった。エマは母親を殺されて錯乱するカミーユに向かって「男のヒステリーはみっともないわよ」と言い放ち、その後部屋を訪れた彼に「慰めてもらいたいなら無駄よ」とダメを押すくらいである。(ひでぇ……)大人だって色々大変で、いつも子供に構ってやれる程の余裕は無いんだという人間像は、確かにリアルで斬新だったかもしれないが、そのせいで物語の軸はぶれ、視聴者は誰に感情移入していいのか分からない状態に陥った。

当時の富野監督の弱気な言い訳がそうさせたのかもしれないし、単に現実をアニメに投射したかっただけなのかもしれないが、どちらにせよそれは大人の仕事では無い。どうにもならない事を「どうにもならないまま」フィルムに写しっ放しにしただけで終わっては、物を作る資格が無いと、今の富野氏は明確に自覚している。だからこその劇場版なのである。

エマは前述のシーン、錯乱するカミーユに対して「切ない事はやめましょう」と言い、シャアはリラクシングルームでカミーユの背中にそっと手を置き、レコアは過呼吸に陥るカミーユの体を抱きとめ、その頭をそっと自分の肩に乗せさせるのである。テレビ版で受け損ねたカミーユの苦しみを、20年経って受け止めさせたのである。このシーンは富野監督の願いであり、意思でもある。「大人だったらこれくらいいつでもしてやれ」と言っているのである。

そしてシャアとアムロを通して「誰かの憧れになったのであれば、少々しんどくてもその期待を裏切るような真似をするな」と言いたいのだろう。だからこそ、このクライマックスは圧倒的にカッコよくなければならない。エゥーゴ一行を追撃するギャプランがまずかっこいい。それを迎え撃つMk-Uもかっこいい。そのMk-Uを追い詰めるギャプラン、「掴まえたよ」と嘲笑うロザミアにわざわざ無線で「こちらもな」と通達して撃退するシャアはまさに誰もが知る赤い彗星であり、さらにそのシャアを圧倒するアッシマーを輸送機一つで撃退するアムロのカッコよさは、「めぐりあい宇宙」の冒頭でリックドム隊を全滅させた頃そのままである。スピーディなアクションと美麗な作画、惜しみなく投入される新録BGMに彩られた実質4機のモビルスーツ戦は、さながら二人の英雄の帰還を祝う祝祭のようだ。

そして二人の英雄は、英雄のままカミーユの前で再会する。伝説の二人を前にして歓喜に震えるカミーユの笑顔は、そのまま我々の笑顔でもある。こんなシャアが観たかった。こんなアムロが観たかった。そして何より、こんな「大人」が観たかったのである。

続く