ここで小次郎と対峙する猪谷巨雲という侍の描写はとても瑞々しい。なだらかに背を丸め、口元はだらしなく半開きになり、焦点と表情を失った両目はまるで呆けているようにすら見える。相手をなめているわけではなく、しかし気負いや仲間を殺された怒りのような、読者の共感を呼びやすい感情は微塵も見当たらない。勝つために邪魔なもの(疑心、不安、興奮、回顧、諸々の感情)を全て手放し、体を自動操縦に切り替えたのである。モノローグすら用いる事の出来ない小次郎と、思考をやめた巨雲との対峙は読者に何も説明しない。今からどんな攻撃をするつもりでいるのか、それで勝てると思っているのかといった、読者を戦いに引き込むようなセリフは一切無い。
心を無にして戦いに臨むと言うシチュエーションは、これまでの漫画でも全く無いわけではなかったが、それらはどれも例外なくかっこよく、まるで神の領域に達したかの様に描かれてきた。それに対してこの巨雲の立ち居振る舞いは、一見滑稽で妙な愛嬌さえあるのだが、それが逆に悔しいほどリアルである。「出来る剣士と言うのはこんな感じかもしれない」と、確かな説得力を持って思わせられる。
一瞬で命を絶つ凶器を前にし、その局面を何度も生き残った人間がどんな風になるのか、何が邪魔で何を手放すまいとするのか、その時どんな顔になるのか、どんな姿勢になるのか。もしかしたら本当は違うのかもしれない。けれどもそれだけの想像力を駆使して辿り着いた絵だからこそ、描けるのである。言われてみればなるほどと思うかもしれないが、どんな絵描きだって普通戦っている最中を絵にしろと言われれば、まず間違いなく眉を吊り上げて口を真一文字にキュッと閉じた顔を描くはずだ。
井上雄彦が提示したものがあまりにも見事だった為に、勝利のロジックは不要のものとなった。現在最新刊である21巻でも武蔵が天才吉岡清十郎を前にして自動操縦に入ってしまい、猪谷巨雲同様思考を放棄してしまったため、ロジックの無いまま決着がついてしまったのだが、これもまた見事な出来栄えである。
井上雄彦は「身体」というものをとても尊重し、それを信用できるようにする事にとても興味を持っている事が幾つかの発言で窺えるが、それでも彼は一流のアスリートではない。金メダルを取れそうなポジションに立ったことは無いだろうし、刀で斬り合う知人が居る訳でも無いだろう。ただ、真剣に想像しただけなのだ。実際に人を斬らなくても想像力を使い続ければこんな絵を描く事が出来る事が証明されてしまった。
知っている事は必ず描けるわけではない。漫画のスキルがなければ漫画で何も表現出来ない。そして知らない事は描けないという言い訳ももう出来ない。こんなものを見せられてしまっては猟奇殺人者の気持ちだろうが宇宙人の経済観念だろうが、なんであれ説得力が無い結果で終わった場合は、真剣に想像する時間が足りなかったという事になる。もちろん誰もが真剣に想像し続けさえすれば井上雄彦と同じ事が出来るという保証も無いのだが、それすらも言い訳にしてしまう様ならそれこそお終いだ。