転機
今のマンションを借りてからもう22年になる。まさかこんなに長く住むことになるなんて思ってもなかった。女房と一緒に暮らす事になって(同棲という奴である)、飼っていた猫を連れて行ける物件を探して、家賃その他と相談して決めたのは東京都青梅市の一画、静かだが不便ではない程度に店が並ぶ街道沿いの、大きなキッチンを擁した広めの2LDKのマンションであった。そこで娘が生まれて、育てて、小学校、中学校、高校とあっという間に時は過ぎて、希望の大学に通うために娘が家を出て寮暮らしを始めて、飼っていた猫は2匹ともあの世に行ってしまって、少し広い家に夫婦二人きりで暮らし始めてそう時間も経っていない時に、それは訪れた。転機が。
一番大きな理由は、女房の勤める会社の事業所が移転する事になり、今の家から通うのは少し大変になること。もう一つは、上の階の住人が立てる騒音が看過できないレベルでひどく、苦情をやんわり言いに行くも全く効果がなく、住環境の回復が見込めなかった為である。部屋を埋め尽くす巨大な手作り家具(本棚と机とシンセ台とベッドが一つながりになったものである)と、そこに限界まで詰め込んだ本や本や本の物量に「これは引っ越しとかしようと思ってもどうにも出来んわ」と諦めていたのが、女房の強い希望もあってついにここを引き払うことにしたのだ。
何せこのマンションはオーナーさんの気前が良くて、家賃の割に住居設備のグレードが高かった。引っ越すからと言って生活レベルを下げたくはない。しかし次の勤め先がある場所はここより若干都会寄りで、同じ程度の部屋を同じ賃料で借りるのは少し難しい感じであった。自家用車があるので沿線の縛りはないが、今の部屋よりいい条件の物件は果たして存在しているのかどうか。とにかくまずは、データ収集である。
It's a notion.
いい時代になった。賃貸物件情報のほとんどはインターネット上の各種サイトで手に入る。埼玉県朝霞市に通える範囲で、静かで、なるべく上階の部屋。大雨・台風が来ても冠水しない場所。荷物の大部分はこの引越で処分するとしても、専有面積は50u以上は必ず要る。部屋数はこれまでと同じく3部屋必要。女房は「絶対に都市ガスがいい」と力説する。とりあえずある程度条件に合致する物件を総合賃貸サイト(HOME'S/SUUMO/スマイティ等)で総ざらいして眺めてみるものの、何せ世の中そんな都合のいい物件は転がってないのである。間取りはここが理想だけど、残念、ここはプロパンガスだ、とか、建物は素敵だが部屋数がちょっととか、街は住みやすそうだけど部屋に行くまでが大変とか、どの物件にも長所短所はあるのだ。予算に制限を設けずに済むのならそうでもないのかも知れないが、我々は最小の投資で最大の利益を得る他ないので、何を捨てて何を取るかは慎重に考えなければならない。そこで威力を発揮したのが「notion」というクラウドサービスである。
「notion」は無料で使えるデータベースソフトで、出来る事はデータベース管理に留まらないのだが、とりあえずメインの用途としてはそういうものらしい。賃貸サイトで集めた各種データ(家賃・管理費・駐車場代・敷金・礼金・更新料・階数・専有面積・部屋数)に、googleマップで計算させた通勤時間、物件のストリートビューのスクショ等を加えて全部notionに打ち込む。これだけではただの一覧表であり、実際これを眺めてはどこがいいのかうんうんと悩んでいた訳だが、このソフトはデータベース管理ソフトなので、Excel等と同様に関数を設定して計算させることが出来る。一覧で見ていた時はどれも一長一短で甲乙つけ難いように見えていたのが、家賃・管理費・駐車場代・更新料等のデータを使って「1年間のランニングコスト」「最初の契約更新が終了する2年後までのコスト」を計算させてソートしてみると、一つ一つは大した差には見えなかったものが1年、2年のトータルでは大変な差を生むことが可視化された。考えるまでもなくこれとこれとこれの中から決めるべきだろうと、いきなり視界がクリアになったのである。この「notion」、元々はプリコネというソシャゲの為に使い始めた物だが、まさかこんなところで役に立とうとは。
断捨離・未捨離
新居候補物件のデータを集めつつ、家にある膨大な量の「モノ」を処分して行かなくてはならない。丸ごと持って行ってもいいのだが、せっかく新生活を始めるのだからこれまでとは違うスタイルで暮らしてみたいという気持ちもあり、また人生の残り時間もだいぶ尽きて来たのでこの機会に少し身軽になっておく必要もあった。今と変わらない専有面積で、今より遥かに少ない荷物で広々と暮らすのが今回のコンセプトである。前述の家具を始め、物置部屋に詰め込んだよく分からない物の総量は把握することも難しく、とりあえず本の類から処分していくことにした。大量の本を少し箱詰めしては集荷に来てもらうサイクルを何周かする必要があるので、発送手続きは極力簡単に済ませたい。そういう配送買取サービスをいくつか試してみたが、指定用紙をプリントアウトして内容物の数量を毎回書かされたり、買取番号を印刷した紙を箱に貼ったりと、色々面倒な作業が要求されるところが殆どであった。試した中では唯一「ネットオフ」が完全印刷フリー、webで申し込めば段ボールを無料で送ってくれて、それに箱詰めすれば伝票を書く必要すらなく集荷に来て貰えるシステムだったので、以降ずっとこのサービスを利用した。本の保存状態があまり良くなかったので買取価格は「ゼロではないね」くらいの微々たるものだったが、これはお金を作るための作業ではなく、不用品を無料かつ楽に処分する為のゴミ捨てオルタナティブなので構わない。紐で縛った本の山をマンション前のゴミ集積場まで何往復も運ぶことに較べれば断然楽である。
しかし、工程が決まっても当初思っていたほどには意外と捨てられないのである。電子書籍で買い直せる物は基本的に買取に出すルールで箱詰めして行ったが、なんだろう、本が減ると心のHPも減るのだ。もう読まないでしょ、というタイトルであっても、それが「ある」という安心感は結構大きいのだなと、処分する機会を得て初めて気づかされた。積みプラモ然り、大昔のゲームソフト然り、日々の暮らしの中で控えに回っている面子も、居るのと居ないのでは大違いである。だって、たとえスタメンだけで最後まで戦うつもりだったとしても、控えメンバーが居るのと居ないのとでは取れる戦術が違ってくるでしょう?
また、自分は忘れっぽい性質なので、こういう機会にその実物を目にするまでそれの存在を綺麗さっぱり忘れていたりする。実物を目にする機会が永遠に失われればそれを思い出すことも永遠になくなる。大抵のものは検索すれば多少なりともネット上に情報が残っているが、それの存在を覚えている状態でなければ検索という行為自体が発生しない。「思い出は永遠」みたいなコピーが世の中には溢れているがとんでもない。忘れない/思い出す為には思い出以外のトリガーが要るのだ。
そういう訳で、厳選に厳選を重ねつつ、手放すと永遠に忘れてしまいかねないなという物は必ず持って行く事にした。
謎の物件
notionでいくつかピックアップした新居候補の中に、ひとつ異彩を放つものがあった。タワマン、というほどではないが結構巨大なマンションの9階で、エレベーターも2基入っている。広いリビングと狭いキッチン、和室が2つに洋室が1つの3LDKでありながらお家賃48,000円。かと言って管理費や駐車場代がバカ高いという訳でもない。上階の騒音に悩まされていた自分にとって、堅牢な巨大構造体と見晴らしのいい眺めはとても魅力的に見えた。しかしこの安さは一体なんだ、事故物件なのか、それともある種の釣りなのか?何にせよ、通勤時間が最長である点を除けば全て文句なしの代物である。引っ越しでは階段で運ぶ場合1階上がる毎にいくら追加という料金体系も多いので、エレベーターがついているここならオプション料金の追加なしに引っ越せる点も助かる。何はともあれ仲介会社に連絡して内見だ。
マンションの駐車場で仲介会社の人と待ち合わせをして部屋に入る。どうも微妙にあちこち薄汚れているのが気になるが構造体の頑強さは足の裏から伝わって来る。階上階下両隣、どこからも物音ひとつ聴こえない。後に女房が言った台詞を引用するなら「ホテルの部屋みたいな感じ」と言えば伝わるだろうか。値段の安さの秘密を聞いたところ、ここは分譲マンションで、この部屋を購入した人が賃貸用途で貸し出しているという、言わば「これで生計を立てなくてもいい商売のひとつ」であり、また前の住人が退去した時のまま原状回復してない状態なのでこの破格の値段なのだという。それなら何の問題もない。内装は自分たちで修繕出来るが建物自体には手が出せないのだ。そっちの出来がいい所に住むべきである。
一応他の物件の内見予約も入れてあるのでそれらを見てから返事をする旨を伝えるが、内心これ以上の物件は出ないだろうという予感はあり、またそれは正しかった。後に思い知る事になるが、この歳になると階段で4階や5階に引っ越すのは無理である。引っ越し自体は業者がやってくれるがそれ以外に入居前の掃除やリフォーム、業者に頼めないモノの搬入等、重いものを持って往復する事態は頻繁に発生する。何はともあれこの後見た物件全て、この賃料を下回るものはなく、この構造強度を上回るものもなかったので、襟を正してこちらの契約を進めていただくよう伝えた。だがそこで大問題発生。「確認不足だったが、マンションの駐車場は今ひとつも空きがない」という事実が仲介業者から伝えられたのである。
さまよえる駐車場(1)
駐車場が無ければお話にならない。車で通勤する予定であるし、何よりここは車が無いと何も出来ない土地ではないか。来客用の駐車場を1枠貸して貰えたりしないだろうかと頼んでみるがそれも通らず、近隣の月極駐車場を探すがどこも空きはない。地元の不動産屋に出向いて近くの賃貸物件の駐車場を使えないかと訊いてみるがそれも空いてない。その親切な不動産屋さんが解説してくれた所によると、近年この辺りの駐車場がバタバタと閉まって建売住宅に替わって行ってるのだそうな。おかげでこの一帯は慢性的な駐車スペース不足であると。こんな広い土地でどうしてそんなことになっちゃうの。
実はマンションのすぐ目の前に駐車場があるのだが、そこには連絡先の看板もなく、車は停まっているものの一体どこの誰が管理しているのかさっぱり分からない。マンションの仲介会社の人も、地元の不動産屋さんでさえも「自分もアレがどこの駐車場なのか全く分からないのです」と首を捻る始末。そんなことある?仕方ないので、google mapのストリートビューで許容範囲ギリギリのギリギリまで範囲を拡大して問い合わせをしてみると3枠空きがあるという駐車場を発見。ただでさえ通勤時間がかかるのに駐車場までまた余計な時間がかかるのは辛いが、ここが埋まってしまえばそれこそ手の打ちようがない。ところがここの管理会社に問い合わせると、どうも話が噛み合わない。こちらがスクショしたストリートビューと向こうがファックスで送って来た図面を付き合わせてみてまたまた驚愕の事実が判明。google mapの画像は少し古く、今そこは例によって駐車場が建売住宅にジョブチェンジしていたのである。管理会社が話していたのはそこから更に遠くにある駐車場であった。
詰んで来ているのではないか、という不安が澱のように溜まって行く。今空いている駐車場は、歩いて行けない事はないが、毎日の通勤に組み込むには負担の大きい距離である。最悪の事態を避ける為に一応軽く押さえておきつつ、まだ諦めきれない我々は例の謎の駐車場で張り込みを敢行した。連絡先が分からなくてもそこを利用している人間は居るのだ。この駐車場に誰かがやって来たらすぐさま身柄を確保して、どうやって契約したのか、どこに問い合わせればいいのかを聞けばよい。
さほど待たされることもなく、一台の車が謎の駐車場に帰って来た。我々は急いで駆け寄り、ちょっと驚いているその老夫婦に事情を話すと、なんとこの方たちは入居予定のマンションの住人で、この駐車場はそのマンションの管理人さんに紹介されたのだという。「は?」ってなもんである。じゃあどうして我々にはその情報が渡されてないの?しかしこの駐車場、入居予定のマンションの持ち物という訳では無く、ここからは不確かな話だがどうも鶴ヶ島市が管理している場所のようで、そこら辺の詳しい事情は分からないままであった。お二人に丁重にお礼を言い、手がかりが得られたのかどうか判然としないまま帰途についた。
さまよえる駐車場(2)
引っ越しの期日が迫っている。なんであれ入居契約はもう交わしてあるので後戻りは出来ない。仮押さえしていた遠くの駐車場の契約の為にまた出向いてきた訳だが、諦めきれない自分は駐車場の管理会社に行く前にマンションの管理人室へ向かう。管理人室の窓には巡回中という札が出ていたのでエントランスで待ちつつ、契約の時間にはまだ20分程度あるのでもう少しなら大丈夫、と焦る気持ちを落ち着かせる。ほどなくして管理人さんが戻って来たので急いで用件を伝えた。マンションの目の前にある駐車場の利用者がこちらで契約したとおっしゃっていたがそれは本当なのか、今あそこに空きはあるのか、そういう事を。答えは「何のことかさっぱり分からない」であった。
……えぇぇぇぇ……、どゆことー……。管理人さん曰く、自分はこの3月からここに入ったので恐らく前の管理人が紹介したのではないか。自分もあそこの駐車場がどこの物なのか不思議に思っていた、等々。
終わった。さすがに前の管理人の住所を調べてコンタクトするのも非現実的だし何より管理会社との約束の時間はもうすぐだ。とりあえず当面はそこを使って、どこかもっと近いところが空いたら即契約出来るようあちこちにコネを作っておくか……頭の中で色んな算段を立てていると管理人さんがごそごそ何やら取り出した。
「あそこじゃないけど実はこういうのを預かっていてね」
見れば駐車場の契約書である。マンションの横手、入居予定の部屋から石を投げれば届きそうな位置に空き地があり、それはすぐ横のアパートの駐車場だと思っていたのだが実は月極駐車場で、マンションの住人で使いたい人が居たら渡してくれとオーナーから預かっているのだそうだ。
こんな事があるのか。お礼を言って書式一揃え受け取り大急ぎで電話を掛けるが生憎留守だったので伝言を残す。もう管理会社の方に行く時間である。今紹介された駐車場にまだ空きがあるかは確認出来ていないが、ここを諦めることは出来ない。とりあえず仮押さえしてある駐車場の契約に行って、こういう事情で契約してもすぐに解約する事になるかも知れないけどいいかと正直に話そう。そう決めて、駅前の不動産屋に入って、何度もメールでやりとりした担当の人とあいさつを交わし事情を話すと「じゃあそちらが確認出来てからでいいですよ」と言ってくれた。まだ前の利用者の解約前であるし、そもそも駐車場の契約は当日やって来て当日から使い始めるようなのも珍しくないからと。
ここでもまた深々と頭を下げて、結局駐車場の件は何も解決しないまま青梅に戻ったが予感はあったのである。果たしてその夜、駐車場のオーナーの方から折り返しの電話が来て、そこを使わせてもらえることになった。(ここもまたあまり本格的な商売でやってる感じではなかったので、何の審査もなく、電話口でじゃあよろしくみたいなノリでオーケーを貰った)
翌々日、マンションの管理人さんと、契約を待ってくれた不動産屋に菓子折りを持ってお礼を言いに行き、駐車場の件はこれで完全に解決である。良かった。本当に良かった。
20年ぶりに机を新調する
これまでは、夫婦別々の部屋で寝起きし、食事もそれぞれの部屋で取っていた。生活リズムが違うからというのがそもそもの理由であるが、自作の巨大システム家具が一人暮らしの時に作られた物だったので、それをそのまま移植した部屋ではそうせざるを得なかったというのもある。今回はその家具をまるごと処分して新しい暮らし方をデザインしようと色々検討した結果、リビングにそれぞれの机を置いて、そこで漫画を描くなりなんなりして、寝るのは隣り合った和室2部屋をそれぞれ使う線に落ち着いたのだが、さて、机である。
件の巨大家具の中心にインストールしていた机はアナログ原稿用に設計していたので、パソコンのモニタを置いたりキーボードを置いたり液晶タブレットを置いたりという制作環境の変化に対応できなかった。当時からぼんやり憧れていた「広いリビングに大きな机があって、隅っこにはこれまた大きな観葉植物の鉢植えがあって、日当たりのいい場所で緑に囲まれながら女房と二人で漫画を描いたりコーヒーを飲んだりしたいなぁ」というビジョンを実現する為には何よりシンプルで広い机が必要だ。二人分のモニタ、キーボード、タブレット等を置く面積を確保しつつ、食事をするスペースも考慮しなければいけない。広いとは言っても8畳程度のリビングで机を挟んで向かい合わせに座ってはそれだけで椅子を引くスペースがギリギリになってしまう。効率的にPC機器を置けて、かつ十分な余裕が残る机が要る。死ぬほど考えて、辿り着いた答えは「オフィス机」であった。
オフィス机。会社勤めの経験がない自分にとってはまるで縁のない代物だったが、ネットで見つけた「オカムラのアドバンスシリーズ」は、デザインもイケてる上にPC環境の構築にも最適(当たり前である)、足の邪魔にならないほど薄く仕上げられた引き出しは収納力抜群で、配線やモニターアームの取り付けにも配慮が為されている。そしてさらに、このシリーズには木目調天板が用意されているのだ。インテリア性もそこそこ高い。本体価格は10万円だが、中古なら2万円弱で買える。耐荷重150kgの机が2万円で買えるなら脚の塗装が僅かに剥げてるくらい何でもない。
なるべく状態の良い個体が出るまでウォッチし続けて、これ、というところで見積もりを出して貰ったのだが、そこには
- 商品は1階平場、もしくはエレベーターでの搬入になります
- 階段手上げ等の作業が発生した場合は追加料金がかかります
と書かれている。当然である。何せ物が物なのだ。引っ越し同様、搬入の階数はお金で買う他ない。幸い入居先にはエレベーターが付いているが、中古の机というのは組み立て済みの状態で搬入されるそうなので、部品がバラバラに梱包された状態より嵩が増す。1400×700×720……大丈夫だろうか。万が一エレベーターに乗らないとなったら9階まで上げて貰えるのかそれとも自分でどうにかする他ないのか。上げて貰える場合は追加料金は一体どのくらいになるのか、そもそもあんなデカい鉄の机を階段で9階まで運ぶなんてこと可能なのか。
念のためまた引っ越し先に出向いてエレベーターやドアの寸法を測り、大丈夫、計算上は大丈夫な筈と自分に言い聞かせ、物はついでと言う事で雑事用としてさらにもう一台追加注文して、計3台のオフィス机の代金を振り込んだのである。
本当に大丈夫だろうか。
越境
いよいよ引っ越し当日である。ここに至るまでの間、アスファルトのめくれに躓いて頭から転倒して眼鏡を割ったり、レンタカーの左半分に成人男性の背丈ほどに育ったミモザの鉢を積んで運んだり、クソでかいパソコンを肩に担いで持って行ったり、ベロベロになったクッションフロアをヘラで剥がして新しいものを敷いたり、畳の表替えを発注したり、電気・ガス・水道の停止・開通手続きにヘロヘロになったりしたがそれらは全部割愛して、とにかく引っ越しだ。家じゅうにあった巨大家具は全て解体して板とパイプと合金のジョイントに還してある。大量の本やよく分からないガラクタ等と共に、それら不用品が占める容積は5畳の部屋を埋め尽くすほどであり、もらった段ボールが底をついた為に何度もホームセンターに行って追加の分を買って来たのである。けれどそれももう終わりだ。不用品はまとめて処分してもらい、僅かに残った段ボールや布団を新居に搬入して貰って今日が終わる筈である。……終わるのだろうか。不用品の中から「これは処分できません」とか「これは追加料金がかかります」とか言われないだろうか。何が起きても「じゃあやめます」とは言えない状況に身を置いているのがつらい。退去予告は既に済ませており、今からまた新しい引越屋を探したとしても、おそらく向こうの予定は2週間先までびっしりであろう。何ごとも起きずに無事終わる事を祈る以外に打てる手がないというのは随分なストレスである。
約束の時間が来て、時間通りに到着した引越屋さんを招き入れてバタバタと搬出作業が始まる。段ボールにぎっしり詰まった本や、うずたかく積み上げられた板やパイプ、合金のジョイント、本人も忘れていた場所から突如出土した激重カセットデッキ等、どれもこれも荷造りの時に自室から別室に移動させるのに台車を使ってやっとだった代物ばかりである。それを「ふぉぉぉっ?」とか悲鳴を上げながらも2つ3つ縦に重ねて階段を降りて行くのである。失礼な言い方かも知れないが「あ、なるほどゴリラに襲われることがあったらきっとこんな感じ」という実感を得た。身体の中の圧というか、質量と出力が自分のそれとはまったく別の生き物である。どんな卑怯な手を使っても勝てそうにない。
あれよあれよという間に積み込みは終わり、次はすぐ新居で合流するので先に出たトラックの後を追うように我々も車で出発する。高速を使って車で30分くらいの距離なのでお互いかかる時間に差はないけれど、こういうの、遠距離引っ越しだったり、依頼主が車を持ってない場合はどうするのだろう。ここから新居までは、電車だとえらい遠回りをさせられて1時間半はかかるのだ。引越屋さんはこの後また別の現場に行かなくてはならないのであまり時間に猶予はなさそうである。
ほぼ同時に新居に到着し、エレベーターで次々と荷物を入れてもらい、最後にトラックの中に見落とした荷物が残ってないか確認して引っ越し終了である。荷物が移動した、というだけでこの新居でまともに暮らせるようになるのはまだだいぶ先の話になるのだが、それはまた別の機会にまとめるとして、とにもかくにも、引っ越し完了である。お疲れさまでした。
時間を止めて待っていて
引っ越しが終わって「さぁ、新天地で新生活だ」、とはならない。引っ越しの翌々日からまた青梅にとんぼ返りである。大掃除と原状回復、というイベントをこなさなくてはならないのだ。
賃貸住宅とは言うまでもなく「借り物」である。借りた物は返さなければならないが、さりとて「どうなってようが返したんだから文句はなかろう」とはならない。友達に貸したコート、ずたずたに破かれた状態で返されても困るね?しかし一方で、物は使っていれば傷むし、使ってなくても時が経つにつれて劣化する。返す時に傷んだ分を全部新品に戻すのでは、持ち主は永遠に新品を所持出来る事になり、それはまた道理が通らない。そこで無駄に揉めないよう、国土交通省住宅局の手により「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン」という物が作られている。賃貸住宅を返す時、住居の修繕費を借主、貸主がどのくらい負担するべきなのかを定めた文書である。
ガイドラインでは、各部位ごとに耐用年数が設定されており、例えば壁紙の場合は6年である。6年も住んでればもう交換して然るべきなので、その時点で借主負担が1円になる減衰直線に沿って居住年数で算出するべし、という事である。6年を超えて住んでいるのであれば、壁紙が汚れてるので弁償しなさい、とはならない。
ところがたとえ耐用年数を超えて住んだとしても、借主の不注意や故意の行為により壁紙がダメになった場合は弁償する必要が出たり出なかったりする。ここが難しい。煙草の煙による汚れはこのパターンに分類されるので、例え壁紙を3回貼り直せる年数を住んでいたとしても、お前のせいなんだからお前が払え、と言われかねないのだ。
壁紙に限らず、フローリングは椅子のキャスターで削られ、それをパテで埋めて均して上から貼った木目シートがまた剥がれている。物置に使っていた北側の部屋は湿気でコンセントの周りの壁が崩れ、リビングの掃き出し窓のガラスにはいつの間にかヒビが入っていた。娘が容赦なく落書きした襖や、削れに削れて上からフローリングカーペットを敷いた畳など、原状回復不可能な箇所は山ほどある。20年も住んでればそりゃあこのくらいにはなるよ、というか、家具が動かせないから要求しなかっただけで、どれも耐用年数超えた時点で交換を要求しても良かった筈である。こちらの言い分としてはだ。けれど、それはあくまでこちらの言い分であり、何せ自分自身一カ所に20年住んだのはこれが初めての経験なのでこういう時、一体どうなるのかは全く知らない。これが引っ越しイベント最大の懸念だった。なので、直せるところはなるべく直しておこうという訳である。引き渡しの前日丸一日を使ってその作業を行う予定だったのだが、また問題発生。電気の供給が止まってしまった。
電気の停止は翌日の筈だが一体どうした東京電力。何故今日止まる??部屋の掃除はともかく、交換したドアやカーテンレールをまた元通り据え付けるにはインパクトドライバの助力は必須である。これを全部手回しで木ねじを入れろと?このくそ重いドアを空中に浮かせた状態で蝶番に5pあまりのねじを人力で入れて行けと?
入れました。大変だった……。ビスならまだしも木ねじを手回しで入れるのは大変。最後にちょちょいっとやればいいかと思ってたこの作業を前倒しにしてなんとか時間内に終わらせた。おかげで掃除の方にしわ寄せが行ったけれど、陽は西の空に落ちて家の中は真っ暗。延長戦はないのだ。まぁこれ以上何をどうやってもどうにもならんだろうというところは潔く諦めて、今日のところは一旦新居に戻る。明日は管理会社の立会のもと、怖い怖い引き渡しの日である。
過去からの贈り物
翌日、室内に置いて行った大工道具やゴミを回収し、管理会社の人を待った。こっちが素人だと思ってアレコレ吹っ掛けて来るようなら行くとこまで行こうという覚悟を肚に忍ばせていたのだが、約束の時間通りに現れた管理会社の人はとてもフレンドリーで、家の中をあちこち見てチェックを入れつつも「あぁ、これはいけませんねぇ」とか「あっちゃー、これは酷いなぁ」みたいな事は言わない。概ね好意的に現況を精査してくれているように見える。20分程度で全ての検分が終わり、それでは、と見積書に数字が書き込まれて行くのを横から見て血の気が引く。いやぁ、かかるかかる。各項目の横に並ぶゼロの数は想定以上の多さである。さぁ、これはどこから値切り始めようかなと思っていると、「もし満額行かないようなら物干し竿、こちらで処分しましょうか?」と訊かれた。「んん?」
物干し竿、というのは、それはこの部屋に元々据え付けられていたと思って置いていったが、管理会社の人からこれは元々は無かったものなので処分していただかなくては、と言われた物である。これについては女房も未だに納得していないのだが、とにかく向こうの記載では、それは「元々は無かったもの」なのだ。であればこちらで処分しなくてはならない。しかし既に引っ越しを終えて、自家用車でここに来た自分にはこの長尺の物干し竿をリサイクルセンターに運ぶ手段がない。なので、有料になるけれどウチの方で処分しましょうか?と提案してくれた訳だ。それは分かる話である。分からないのは「満額行かないようなら」の方だ。満額って何の額?
敷金の事だった。ありましたねそんなの。20年も前の事なので覚えてませんが確かにあった気がします。それが17万円くらい払ってあるので、それでお釣りが出るようだったらそこから料金払ってウチで処分するようにしますか?と、そういう話らしい。oh... わたくし生まれて初めて敷金を有難く思いました。今まで「ただでさえ引っ越しで物入りなのに2カ月分とか馬鹿にならねぇよ」みたいに思っていたけれど、敷金大事。
まぁ、大雑把に家賃8万円として、1年で96万円、10年で960万円、20年だと1800万円近く払って来た訳である。おまけに耐用年数だけ考えれば全てとっくに交換されていて然るべきなので、まともに考えればここから更に請求される言われは無いよなと思うのだけど、やはり向こうはプロなので、こじれると大変だなぁと心配していたのだがそうはならなかった。それどころか、ガラスや洗面台のヒビなど、耐用年数の問題なのか使い方の問題なのか曖昧な箇所も「保険が利くよう請求しておきましょう」と言う事で敷金の範囲内で収まるようあちこち調整してくれたのだ。
結局物干し竿の処分もお願いした上で、それでも少し余った分は後日返金されることになった。なんか、事前にあれこれ嫌なケースを想定してそれに対応できるよう各種理論武装をしていたのが恥ずかしくなるほどで、駐車場の一件でもそうだったけれど、この世の中、色んな人に良くして貰ってやっと何とかなるんだなぁと、少し、そんなことを考えた。
全ての手続きを終え、集合ポストの中を空にしてマンションを後にした。鍵も返してしまったのでもうこの部屋には入れない。20年毎日使ってた家のドアはもう開かない。昨日まで付き合ってた彼女が、別れたら口もきいてくれない、みたいなその事実が上手く処理できなかったのだろう、少ししんみりした。
この後まだまだやる事、やる羽目になった事は尽きなくて、一体いつになったら落ち着いて新しい暮らしを楽しめるのだろうとため息つきたくなる毎日が続いているのだけど、とりあえず引っ越しはこれにて終了である。これからは、夫婦二人で仲良く素敵に暮らす。
こんな大変だったんだから。元は取らないと。
ちょっとした備忘録
最後に今回の引っ越しでお世話になった物・サービス等を一覧で書いておく。もしかしたら、誰かの役に立つことがあるかも知れない。
- HOME'S/SUUMO/スマイティ等の総合賃貸物件一覧サイト
- 何はともあれここからである。最近の賃貸一覧サイトは検索時に指定できる条件が多彩で、検索効率はすこぶる高い。サイトごとの特色はあれど、ある物件がサイトAには無くサイトBには載っているケース、またその逆もあるので、時間と手間が許す限り多くの類似サイトをチェックするべきである。
- google map
- 何を今更、という感じだが、引っ越し先の選定において今と昔を圧倒的に隔てるのはこれの存在である。賃貸サイトで良さそうな物件を見つける→建物の名称が伏せられていたり、住所の記載が大雑把でも外観写真を頼りに衛星写真とストリートビューで当該物件を特定できる→近隣の建物、道路の幅、駐車場へのアクセス、商店の充実具合等、家に居ながらにして部屋の中以外は全て見る事が出来る。
- notion
- データベース管理ソフト。賃貸物件のデータ分析、引っ越しスケジュール/To do リストの作成、要・不用品の洗い出し等、今回の引っ越しで一番活躍したモノ。使い方が分かるまで相当手こずったが、そのポテンシャルはかなり高く、やりたい事、作りたいモノを問わず大抵の事はこれだけで出来てしまう。
- まんだらけ
- さすがこれがメインの商売のひとつだけあって、特定ジャンルに限定せず広く同人誌の買取をしてくれる。宅配買取対応
- ネットオフ
- ホビー関係なら大抵の物を買い取って貰える上に、特筆すべきはその申し込みの簡便さである。web上で申し込みをすれば集荷に来て貰うまでやる事と言ったら送って貰った段ボールにモノを詰めてガムテープを貼るだけである。数が多いと伝票を書いたりなんだりするのも大変な労力なのでこれは有難かった。申し込んでから集荷に来るまで若干日数が空くのが場合によっては不便かも知れない。
- オフィスバスターズ
- 中古オフィス家具の総合販売サイト。オフィス机は家庭用に較べて作りが剛健、耐荷重も桁違い、ついでに値段も1桁違うのだが、中古であれば家庭用のそれと同程度のコストで導入できる。オフィスバスターズは全国各地に拠点があるため近隣店舗から購入すれば配送料も抑えられ、かつ配達する品が1つでも3つでも配送料は変わらないので、複数まとめて注文するとなお良い。
- 水の激落ちくん
- 引っ越し先に持って行くものを整理する時、或いは買い取りに出す為に箱詰めする時、色々な場面で「モノの汚れを落とさなくてはならない」事は多い。自分の場合は煙草の煙による汚れであらゆるものが茶色くコーティングされてしまっていたのでそこからどうにかしなくてはならなかったのだが、この「水の激落ちくん」と、この後紹介する「カインズのヤニ汚れ用洗剤」は煙草のヤニ汚れを落とす事にかけては素晴らしい性能を発揮する。水の激落ちくんは界面活性剤が入っていないのでこれで清掃した後に二度拭きする必要がなく、侵襲性も低いので洗剤を使うのを躊躇われる素材に対してオールマイティに使える。ヤニ汚れを落とす性能に関してはカインズの洗剤に一歩劣るが、使い勝手の良さでとても重宝する。
- カインズのヤニ汚れ用洗剤
- 魔法か、と思う程落ちる。素材が非浸透性の物(ツルツルの物)であれば、これをかけた瞬間にもう勝負は終わっている。あっという間にヤニが分解されて茶色い液体になるので、汚れていない部分に流れて汚染しないよう気を付けなければならない。強力であるがゆえに侵襲性も高く素材を選ぶが、使える対象であれば必ず勝つ。
- 台車
- 鉢植えの運搬用に購入したのだが、出番はそれだけにとどまらず、本がぎっしり詰まった段ボールや、大量に出たゴミ袋を運搬する時にも大活躍。引っ越してからも開梱して畳んだ不要段ボールは大量に出るし、それをまとめた物は結構な重さである。特別な用が無くても、引っ越し時には1台用意しておきたい。
- 脚立
- 天井照明の取り外し、カーテンレールの据え付け等、台車同様バーサタイルに活躍する道具である。最近のは本当に軽くて、普段の生活でもちょいちょい出番があると思われるので1脚持っておくのもいい。不安定な足場が原因でケガをしたら大変である。
- インパクトドライバー
- 必ず必要になる。普段の生活でも頼りになるのでまだ持ってない人は買っておくのが吉。人間は、手で木ねじを打つようには出来ていない。ドライバーのみならず、ドリルや六角レンチなど様々なビット(先端部分)が付いて来るのでこれ一台でたいていの物は組立/分解出来る。
- レーザー距離計
- 新居の部屋のサイズ、梁までの距離、ドアの幅等、引っ越しにおける測量の重要さは枚挙に暇がない。ここを把握していないと新しい部屋にどう家具を配置するかのプランも立てられないし、大きな家具を注文したら玄関に入らなかったとか廊下を曲がれなかったの様なクリティカルな問題を引き起こしかねない。レーザー距離計と伝統的な巻き尺でありとあらゆる場所の長さを把握するべし。
- バールのようなもの
- 正式名称はインテリアバールと言うのだそうな。ボンドで接着されたクッションフロアを引き剥がす時、ダボ穴連結されたタンスや棚を解体する時、結局最後にモノを言うのは物理である。こんな簡単な作りでありながら梃子の力は凄まじく、どんな頑固なものでも立ちどころに分離させる。値段もお手頃なので1つ持っておくと良い。
- ただただデカいだけのバッグ
- 特に何か目新しい機能がある訳でもない、ただ大きいだけのバッグ。PCやモニタを運ぶために買ったものだが、これが案外お役立ちだった。大は小を兼ねるとはよく言ったものである。新居や旧居を掃除する時に必要な道具、終わった後に出るゴミ、引っ越しの時はとにかく大きなものを運ぶ必要がある。それも、予定していない時に、想定外の事態に見舞われての事が多い。人間の力で運べるものなら何でも入るバッグがあると便利である。
- 強い気持ち
- 何せ引っ越しは大変である。一度ゴールを設定してしまえばもうその期限までに全てのミッションをクリアしなくてはならない。時には想定外のトラブルに見舞われたりもするし、力仕事で身体を痛めてしまう事もあるかも知れない。膨大な手続きの数に加え、あれやこれやと毎日のようにお金が飛んでいく。やってる最中に楽しい事なんてほとんどないのが引っ越しである。それでも、ここで下手を打ったり妥協したりすればそのツケはその後何年にも渡って自分の身に返って来るので絶対に勝つぞ、という気概を持ち続ける事が肝要である。どうか、あなたの引っ越しが満足の行くものになりますように。