今回もネタバレ全開、一切の手加減なく『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』の話をしようと思う。興味はあるけどまだ観に行ってないやという人はネタバレされる前にページを閉じて最寄りの劇場を検索しましょう。もう観たよ、或いは絶対観ないよという人は、ようこそ。テレビ版の中の1話がどれだけ細心の注意を払ってリメイクされ蘇ったのか、ククルス・ドアンの島が私に何をもたらしたのか、ここに思う存分記しておこうと思う。
間口と手順
これまでいくつものガンダム作品が映画化されたが、「誰が観ても分かる」というキャッチコピーを与えられる作品は少なかったのではないかと思う。テレビ版を再編集せざるを得ない制約や、暗い宇宙空間を飛び回るモビルスーツの敵味方を判別する難しさもあるし、「ニュータイプ」や「サイコフレーム」という、作中の人間ですらその原理がよく分かってない物が幅を利かせているせいかも知れない。ガンダム初見の人間が遭遇する「よく分からないけど雰囲気で飲み込むしかない」数多の台詞やシーンの洗礼は、それはそれで濃密な時間ではあるが、何十年も続いたシリーズが要求する前提はもはや一見さんが気軽に暖簾をくぐろうと思えるような軽いものではなくなっている。しかし今回その心配はない。多分、誰が観ても分かる。そう、作られている。
ストーリーの殆どはカナリア諸島に浮かぶアレグランサ島という狭い舞台で進行し、そこには主人公アムロ・レイと、一応敵扱いのククルス・ドアン、彼が保護している子供たち、そしてヤギしか居ない。もって回った策謀や、謎の超兵器もない。ただただ島を歩いてガンダムを探したり、地面を耕したり、井戸のパイプを繋いだり発電機のバッテリーを使えるようにしたりするだけの話なので、「ネオジオン……??」とか「アナハイム・エレクトロニクス……?」みたいな、前提知識のない客を面食らわせる固有名詞も殆ど存在しない。(注1)
前段で”するだけの話なので”と書いてしまったが、これはとても大事な部分である。本作に於いては観念的ないざこざは排除され、起こる出来事はとことんフィジカル、「乳絞りが上手く行かない」「鍬を入れるのが難しい」「ガンダムが見つからない」「井戸の水が出ない」「電気がつかない」「子供たちからの当たりがキツい」「ヤギが強過ぎる」等々、そこにあるのは確かに実感できる困難であり、またそれらがひとつひとつ解決されて行く過程は物語が前に進んでいる実感を与えてくれる。敵と味方と第三勢力が入り乱れ、今これ何のための作戦をやってるんだっけ、これに勝つとどうなるんだっけ?という部分が往々にして不鮮明になりがちなのがガンダムの劇場版だが、本作では観ていてお話が迷子になる事がないのである。
その分かりやすさはモビルスーツにも適用されている。この映画には基本的にガンダムタイプ(ガンダム及びジムのバリエーション)とザクタイプ(ノーマル、ドアン用、高機動型)しか出て来ないので、味方はこういうロボット、敵はあの、目玉がある奴、というルールを把握するだけで、どんな初心者でもついて行けるようになっている。劇場版となればあんなモビルスーツやこんなモビルスーツ、なんならプラモでしか出てないアレコレも出したいと思うのが人情だが、本作は孫と一緒に来たおばあさんでも一応困らないラインで敵味方を区別できるよう作られている。(注2)
- 敵はザクタイプ、味方はガンダムタイプに限定する事でどの戦闘シーンでも敵味方の区別が容易につく。ガンダムタイプとは少し風貌が異なるガンキャノンも最初にガンダムの僚機として登場するので誤解が発生する余地はない。
加えて、パイロットの強さのヒエラルキー。ここがしっかりと手順を踏んで描かれている点も注目である。
まず物語冒頭、2機のジムを瞬く間に閃断するククルス・ドアンの強さはまだ未確定だが、島に上陸したアムロをザクの足跡で自身に優位な位置に誘導した上で後ろからの不意打ちする老練さ、そこから反撃に転じたアムロのビームサーベルを後方に跳び退って避けた操縦技術が、最初の遭遇戦で十分示されている。
そして中盤に入る手前、舞台を移してカサブランカでの散発的な戦闘シーンで機能した二手目の説明が素晴らしかった。この場面で、ザクを追い詰めるジムを圧倒するサザンクロス隊、という強さのヒエラルキーを明確にした上で、この隊の新人の口から「ククルス・ドアンはこの強いチームの元隊長」であり、「巷では”赤い彗星”と比肩しうる実力と評されていた」事が語られる。最初に不意打ちでガンダムを強襲し、途中で起きた崖崩れでその実力のほどが低解像度でしか推し量れなかったドアンの力量を誤解なく伝えるための楔のシーンである。何せこの映画では、アムロが真っ当に戦って倒す敵はたった1機なのだ。3分でリックドム9機撃墜とかそういう数で見せるやり方は使えないので、敵の質を上げる必要があるのだが、それをここで初めて出て来たサザンクロス隊のキャラと戦闘技術を描きながら、ドアン本人の口からではなく、生意気な新人の軽口から他のメンバーの複雑な感情を引き出した上で説明する脚本が果たした仕事はとても大きい。
誰が敵で誰が味方なのか、今何に困っていて何を解決しようとしているのか、この中で一番強いのは誰なのか、そういった部分を常に明確にしながら進んでいくこの脚本は、言われてみればそれは当然クリアしとくべき事柄だけど、それがなかなか出来ないのもまたガンダムだったなぁと思い出させてくれる。
新しい物差し
本作のアムロ・レイが与える印象はテレビ版(所謂「ファースト」)のそれとは少し違う。具体的に言うと、フィジカルの強さが強調されており、その新しい一面を描き出すに当たってマルコスという少年がとてもよく機能した。
アムロは元々インドアな性質で、自室で背を丸めながらコンピュータを組むような少年であった。それが成り行きでガンダムのパイロットになり、いやいやながら戦闘に駆り出され続け、いつしか一人前のパイロットに成長し、勢いあまって十人前でも足りないくらいのエースパイロットになってしまった訳だが、そのフィジカルに焦点があてられたシーンは驚くほど少なかった。ホワイトベース内で時折しごかれるシーンはあったものの、基本的にはロボットのパイロットにフィジカルは不要、こいつはガンダムに乗って強ければそれでいいのだ、みたいな雰囲気だった訳である。
けれど、F1レーサーがひ弱では勤まらないように、また仮にも軍隊に数カ月居た以上決して避けられないように、システマティックな軍事訓練はしっかり行われていたと思われる。少なくともこの劇場版においては。
崖から落ちたあと見知らぬ寝床で目を覚まし、直径約5kmの島とは言え、急勾配の土地を端から端まで踏破出来る体力もある。(注3)なるほど、言われてみればこれくらいの事が出来るようになる時間、出来るようにならざるを得なかった環境はあった訳だよね?と納得させられる。アムロの戦闘力の殆どは判断の速さと正しさに依るものだが、だからと言って決してひ弱ではないのだぞと。
- ロープ一本で崖をラぺリングし、狭く足場の悪い洞窟内で水に濡れたパイプの補修もこなす。ホワイトベースの一員になって以降、兵士としての訓練をしっかり受けていたのだなと思わせられる。ドアンの基地内で喧嘩を吹っ掛けられた際も、下のポジションに甘んじながらしっかりパンチを避ける姿が印象的だった。
歳の近い、そして長いことドアンの元でサバイバル生活をしているマルコスであっても、アムロの練度には少し及ばない。普通の子供と較べたらアムロ・レイは十分動ける身体の持ち主なのである。その事実が、彼がこの数か月間、恐らくなんやかんやと文句を言いながらもその訓練と真摯に向き合い、成長して来たことを教えてくれる。
相変わらず人づきあいが苦手な雰囲気はあるものの、完全アウェイな島の中にあっても決して捻くれることなく、自身が鍛えた能力と体力で子供たちの暮らしを助け、信頼をひとつずつ勝ち取っていく様を観れば、もしガンダムから降りる未来があったとしても彼はそこそこ人の和の中でちゃんとやって行けそうだなと安心できる。アムロ・レイにはモビルスーツ戦闘以外の良い所もちゃんと育っているのだと、そんな風に思えるのである。
質の戦い、戦いの質
島に隠された核ミサイル発射装置に発射信号が送られて来たこと、灯台に戻ったアムロがついつい発電装置を復旧させて灯がついてしまったこと。島での暮らしに終わりを告げる数々の徴しに抵抗する術はなく、ククルス・ドアンはついに昔の仲間と対決する。最初の跳躍で両足のスラスターを個別に操作できる技術の持ち主であることを描写し、カサブランカのシーンで語られた実力が誇張されたものではない事が示される。
一方アムロは海で溺れながらもマルコスの助力を得てなんとかガンダムの元に辿り着いていた。敵のザクに見咎められ、ドックにかけられたカーテンをめくられた瞬間、アムロ少年を良く知る我々は次に何が起きるか知り過ぎるほど知っていた筈だが、それは思い上がりであった。
ビームサーベルの柄をザクのコクピットに押し当て、瞬間的に出力をONにしてコクピットだけを蒸発させたのである。そういえばすぐ傍にマルコスが身を潜めていたのだ、ここで戦闘をすることも、ザクを爆発させることも許されない。人間だけを殺されたザクが床に崩れ落ちた時、初めてその事に思い至る。
その音を聞いて生身で駆け付けた別のサザンクロス隊員に対しても、アムロは正しく対応する。リスクは最小限に、味方の命を最優先に。ガンダムのパイロットになりたての時、生身の敵兵に対してビームライフルを撃つことに恐怖していた少年は、今もやはりその事に対して大変な抵抗を感じてはいるけれど、彼はいつだってやるべきことは必ずやって来たのである。出て来なければいいのに、と思っても、出て来た以上は撃破する、それが我々の知るアムロ・レイであるので、ここでも彼は苦痛に顔を歪めながらも、敵兵がザクに乗る前に、ガンダムで踏みつぶすのだ。
- アムロの恐ろしさがこれでもかと描かれた一連のシーン、「ザクを爆発させないように倒す」「生身の人間を攻撃する」は二つともテレビ版で描かれた(そしてこの島に来る前に既に経験済みの)シチュエーションではあるが、本作における手際の良さはその時とは別次元の物である。
これか、と。これだった、と思った。アムロの強さは、ニュータイプの勘の良さとか、機械に対する知識ではなく、常に判断の速さと正しさだった筈である。セオリーにこだわらず、邪魔であればメイン武装を躊躇いなく捨て、それで敵が倒せると思えばモビルスーツ自体も捨て駒にする。咄嗟に最善手を出せる、出し続けることが出来る。それがアムロ・レイの強さだった。
そして彼の凄みは、最後に控えるサザンクロス隊隊長との一騎打ちで最高潮に達するのである。
プラクティカルマーダラー
アムロが復旧させた灯台の光が火口の淵に立つガンダムを明るく照らす。ここでそれ!と思わず心の中で叫んでしまった名演出である。何せこの灯台は、今映ってるのがアレグランサ島であると示す格好のランドマークであり、電力は復旧できないと嘘をつき続けて来たドアンの後ろめたさの象徴でもあり、また、それを直して灯をともしたアムロが子供たちからダメ押しの信頼を勝ち取ったという、世界で一番役に立っている灯台なのである。それがまさかここで更にこう使ってくるとは。
両刀のビームサーベルを光らせながら火口に降りて行くアムロはこの時どこまで読んでいたのだろう。高機動ザクの機動力を実際に見たのはこの直後が初めてだったと思われる。相手の機動力を見て、攻撃を受けて、鍔迫り合いすること数秒、ここでもうゴールの絵は見えたのだろう。スラスターを吹かして後方にジャンプ、火口の淵に着地したガンダムを見上げて「逃がさん!」と言った時が、この現隊長の命運が尽きた瞬間であった。上陸時のドアンとの戦闘でビームライフルを海に放り捨てたガンダムには頭部バルカンしか飛び道具が残っておらず、高機動ザクの機動力でアウトレンジされた場合、これを撃破する手段は無かった。なので、誘った。火口の尾根で、左は断崖絶壁の海、右はすり鉢状の火口が口を開ける狭い足場に誘導し、そこで初めて機動戦を行えないことに気付いたサザンクロス隊隊長を仕留めるのに必要な手数はさほど多くなかった。
- バルカンで態勢を崩し、右のサーベルで肩口を、左のサーベルで胴を薙ぎ払って終了。相手のストロングポイントを消す場所に誘った上での完封である。これを15だか16だかの少年がやってのけるのだ。ククルス・ドアンを斬り伏せた実力の持ち主とは言え、現隊長である自身の面子というノイズに左右される兵士が、ただただ自動的に最善手を繰り出し続けるアムロ・レイという戦闘装置に敵う訳がなかったのである。
当座の敵を殲滅し、ザクを海に廃棄することでドアンを戦争から引きはがして、アムロの島生活は終わった。途中割愛したが、島の子供たちとホワイトベースの子供たちがヤギを仲介して知り合い、決戦の火口に駆け付けたくだりは素晴らしかった。どうして子供たちをガンペリーに乗せて連れて来たのとか、ドアンの勝利を信じてる小さい子たちはともかくカーラはみんなが火口に行くのを止めなきゃダメなんじゃないの?とか、色々ツッコミたくなるのは確かなのだが、このシーンは絶対に必要なのだ。ククルス・ドアンと親交を育んだのはアムロだけなので、他のホワイトベースクルーからしたらドアンも単なるジオン兵である。顔も知らない同胞とは言え、ジムを2機撃破されてもいる。いくらアムロが取りなしたところで、じゃあお達者でとは言えない。双方子持ちで、似たような境遇で、子供同士が仲良くなってしまったらもうしょうがないよねと、少なくとも島に上陸したクルーには思って貰わないとドアン達を放置して帰ることに納得はできないのである。
このシーンのおかげで、今まで通りの暮らしに戻ったドアンと子供たちの上をホワイトベースが飛ぶシーンが気持ちよく見られる。少し強引ではあったが、絶対外せない部分をきちんと繕ってエンディングに繋げた賢明な判断だった。ここを抑え損ねていたら、エンディングにかかる森口博子の歌声が薄ら寒く聴こえてしまっただろうから。
再会、アムロよ
そうして、この映画はドアンたちのその後の日常の一コマをコミカルなイラストで紹介しながら幕を閉じる。勿論タイトルが「ククルス・ドアンの島」なのだから、それで締めるのは不思議でもなんでもないが、実際のところはこの映画は全編アムロ・レイの為の物語である。
今作のアムロ・レイは少し我々の知るアムロとは違う面を獲得していて、けれどその根本の所は当時のまま、それどころか更に美しく磨き上げられている。成り行きでモビルスーツのパイロットになってしまって、戦闘に次ぐ戦闘でちょっと心を病んじゃって、色々あって気が付いたらめちゃくちゃ強くなってましたという主人公が改めてその存在を再考証、再構築され、本人の確かなフィジカルと背筋が凍るほどの判断力が丁寧な手順で描き明かされた。この100分の間に行われたのは、アムロ・レイというキャラクターの再プレゼンテーションである。
この少年は、多くの続編、派生作品で多様な年代と表情を見せて来たが、ガンダムをファーストから観て来たファン世代は、きっとこの島を訪れることで、アムロ・レイというキャラクターの原点に再会できるだろう。正直に告白すると、自分はこの映画のクライマックス、アムロがガンダムに乗り込んだところから最後までずっと泣きっぱなしだったのだ。
そういえばこいつはこんな奴だったなとか、意外な一面もあったのだな、とか、言い方は悪いけどまるでお通夜で故人を偲ぶような。島の探索に出かける少年の後ろ姿を見送りながら、その懐かしさには確かにちょっとした悲しみも混ざっていたように思う。だから、最後の決戦で、その圧倒的な強さに懐かしく触れて、堪え切れなくなったのだと思う。そうだった、そうだった。今まで散々言われてきた事だけど、改めて思い知らされた。キミは、こんなに強かったんだと。その強さが際立ちすぎていて、懐かしくて、少し悲しくなったのだと思う。
- 注1
- 連邦軍のお偉いさんやジオン軍のマ・クベ等が時々馴染みのない単語をうっかり口走る事はあるがさほど問題ではない。
- 注2
- 『機動戦士ガンダムUC』でマイナーなモビルスーツが大量に登場した時、それはそれで確かに楽しかったのだが、一応大抵のガンダムは観ていますよ程度の自分では「今映ったのどっちの機体??」と躓く場面も多々あった。
- 注3
- ちなみにテレビ版15話「ククルス・ドアンの島」では、ランニングシャツにパンツ一丁、素足のアムロが島を隅から隅まで探索する様子が描かれ、フィジカルがどうこう言えるレベルではない野人っぷりが楽しめる。