※この記事には、ある事情(参照:「間違った英語の話をしよう」)のもと、高い確率で間違った知識が含まれています。
色々あって「The Complete Guide to Japanese Kanji」という漢英辞典を注文した。漢英辞典とは、「日本語を勉強したい英語話者が漢字の意味を調べたい時に使う本」である。漢和辞典の説明書き部分が英語になっていると考えても良い。最初、IBCパブリッシングの「KANJI STARTER」という小さな本を買ったのだが、これが予想以上に面白かったのでもうちょっと収録数の多い物も読みたくなったのだ。漢英辞典がどんな物なのかよう分からん、という人も以下のスクリーンショットを見ればサクッと腑に落ちるだろう。
微笑ましい。我々日本人が英単語を知る為に四苦八苦しているように、向こうの人はこの膨大な数の文字を何とか理解する為に、各々の漢字の何が一番本質的な意味なのかと、知恵を絞って訳語を選定しているのだ。
で、なんでまたこんな物を読む気になったのかと言うと、「英単語に対応する日本語訳は”漢字部分だけ”なんじゃないの?」という事を最近考えているからである。「walk=歩く」ではなく、「walk=歩」なのでは?と。
英語の勉強が進むにつれ、初学者は
- 動詞には「自動詞・他動詞」という二種類がある
- しかし実は自動詞・他動詞、両方の使い方をする動詞がいっぱいある
- 実はこのまま名詞になる奴までいるのだ
という事実を突きつけられ、天を仰いでしまう。
「walk」は「歩く」だけど、「歩かせる」という他動詞にもなるんですよ、と。へぇ、「そして、a walkでちょっとした散歩という名詞にもなるのです」はふん?
「break」は自動詞だと「壊れる」で、他動詞だと「壊す」で、名詞になると休憩って意味ですね。ごめん、もう一回……
「water」は「水」ですが、「水をやる」という他動詞にもなるのです。植物に水をやる、のアレ。「water」は不可算名詞なので現在形だったらパッと見、名詞なのか動詞なのかそこだけじゃ分かんないっすね。助けーて。
この文構造・文脈依存型の言語は初学者に厳しい。「歩かせる」はそれだけで間違いなく「歩かせる」だが、「walk」だけではそこがまだ分からない。よくそんな作りの言語を扱えるなと思うのだけど、しかし、それは考え方が逆だった。
「walk」を「歩く」や「歩かせる」と訳した時点で、勇み足だったのだ。正しくは
「walk=歩」
これ。日本語の愉快な仕様である「コアイメージ(漢字)+文法機能部分(ひらがな)」による複合記述方式を英語に対応させるのであれば、まだ文章の中に登場していない裸の英単語である「walk」は「歩く」でも「歩かせる」でも「散歩」でもなく、「歩」、なのである。なのかどうかは知らないが、そう考えた方が断然しっくり来る。だって、「walk」だけではどれになるか分からないのだもの。それは「歩」に「く」や「かせる」を付ける前の状態という事だろう?
このイメージ「裸の英単語=ひらがなが付く前の漢字」は、訳文ごとに「〜で」になったり「〜が」になったりする前置詞に対してより一貫性を発揮する。「in=内」「at=於(おいて)」「to=至」「by=拠」みたいな感じだろうか。
- 私優於野球。
- 彼歩犬内公園昨日。
- 私行至百貨店。
なんかインチキ中国語みたいになってるけど、「good at 〜」の「at」は、日本語に訳せば「野球が得意」の「が」で、「at the station」の時は「駅で」の「で」になるというフラフラした奴だが、「於」という一字で考えれば「野球に於いて」「駅に於いて」と、どちらの場合でもその一文字で賄える。そして多分、このインチキ中国語っぽい字面を脳が処理する時の感じが、英語を扱う時の「感じ」なんじゃないかと思うのだ。
漢字と英単語の1対1対応についてはgoogle翻訳が頑張っていて、検索フォームに「えい」と打ち込んで変換候補を下れば、その都度その漢字に対応する英単語を「営=management」「鋭=sharpness」「曳=Hauls」の様に表示してくれる。そしてそれをまさにデザインで表現した漢英辞典も存在する。「The Kanji Handbook」という本では、英単語の頭文字を、その単語に対応する漢字に置き換えて表現しているのである。
この書式はなかなかに浪漫がある。次のように思い付きで漢字を当てはめてみてもなんとなく意味が分かる。
- I 請ould 好ike 君ou 至o 援elp 己e 拵ook 餐iner.
一つの文章で、英語読者にも、漢字読者にもなんとなく通じてしまうのだ。中国人にも分かるような漢字を選んで付けたら世界人口の70%くらいが読める言語になってしまうのではなかろうか。漢字二文字使えば「熱nthusias的」とかも初見で通じてしまうよ?
まー、これはあくまで遊びの範疇で、普段の勉強は文法だの英単語だのを地道にやるしかないのだけど、ちょっと気分転換したい時に漢英辞典を眺めるのもいいと思う。汎用性が高く一つの訳で賄いきれないような語に対しては「訳ではなくコアイメージを掴みましょう」みたいな文章を良く目にするが、ネイティブが浴びるほどの時間とシチュエーションで涵養したそれを今から調達するのは大変だ。しかし改めて調達せずとも、平均的日本人であれば既に漢字という形で数千を超すイメージを心の中に持っているのだ。「放」「投」「射」はどれも似たような意味だが、我々はそこに僅かながらの差を見い出せる。見い出してしまう。この感覚を想起させるものがコアイメージと言うのであれば、それを介して英語にすり寄って行くのもひとつの手であろう。
何よりこれは普段目にする参考書、「日本人が英語を把握する為に知恵を絞った結晶」とは逆方向からのアプローチという点で面白い。英語圏の人間が日本語を英語に引き寄せようとする時、どの日本語に何という英語を充てるのか。そこにはきっと、英語圏の物の捉え方が示されていると思うので。