今期『ハナヤマタ』というアニメが始まったのだが、登場人物達の描き方がちょっと変わっていて目が離せない。原作も未読でアニメの方もまだ2話までしか観てない状況でこの作品について言及してしまうのも急ぎ過ぎな気がするが、何せショックだったので、この驚きが減衰する前に書き記しておこうと思う。
何ごとに対しても消極的なスタンスで、自分に自信が持てない主人公「関谷なる」と、彼女の前に突如現れ、一緒によさこいを踊ろうと持ち掛ける留学生「ハナ・N・フォンテーンスタンド」、関谷なるの友人で何ごとに於いても派手な活躍を見せる「笹目ヤヤ」。この三者を配置して物語は始まる。
現在の自分に合格点を与えられず、どこへでもいいから一歩踏み出したいと考えていた主人公が、とある出会いで自らに積極性を付与していく物語のオーソドックスな始め方である。大抵のスポ根モノや部活モノはこういう始まり方であり、その点から見ればこの『ハナヤマタ』は手堅い滑り出しを見せたのだが、驚いたのは彼女らが、常に自分の仕様と行動原理を、視聴者と周りの人物に開示し続けた事にある。
アニメ1〜2話で各人が自己に関して言及した台詞を拾い出してみるが、まずは主人公のなるから。
「頭脳明晰・眉目秀麗・美術や音楽だって何だって出来ちゃう。当然、みんなにも好かれる人気者。そんな完璧な女の子がわたし、関谷なる。……わたしがそんな完璧な女の子である筈もなく、わたしは何だって普通。普通だらけの14歳の女の子です。中学生になれば、何か変わるかな、なんて思ってたけど。」
「小さい頃、一度だけ大きな映画館に連れて行って貰った事がある。みすぼらしかったヒロインの少女は、魔法使いや王子様と出会って、とても綺麗なお姫様になった。わたしもいつか、こんな風に輝ける日が来るのかな。そう思うと、胸が躍った。いつか誰かが、この世界から連れ出してくれる。そう思ってわたしは、ずっと待ち続けた。物語のヒロインみたいな、不思議な出会いを。」
「部活かぁ……そう言えば、入学したての頃、わたしも部活に入ろうとしたんだっけ。でも結局、勇気がなくて……。あの時踏み出していれば、何か変わっていたんだろうか。でも、今までと変わらない生活が送れる事に、ホッとしてしまった自分がいる。わたしは、一体どうしたいんだろう。」
ざっとこんなトコだろうか。彼女が自分に自信がなくて消極的かつ他力本願の生き方をして来た事が何度となく告白される。一方、祭りの夜にエイリアンのように現れ鳥居の上で着物を着て踊った少女・ハナが、何故こうまでよさこいにハマってるのかを開示した台詞が以下の物である。
「いいんです。だって私、よさこいするの夢だったから。みんなに変な目で見られるのも分かってるけど、気にしません。だって、自分でやるって決めた事だから。小さい頃、旅行で日本に来た時、一度だけ目にしたよさこいの、華やかで、力強い踊りが目に焼きついて、いつか私もあの中に入りたい。この人達みたいに輝きたいって。やっと憧れの日本へ来れて、みんなでよさこいを踊ってみたい、そんな風に願って来た事が、今は頑張れば叶っちゃうんです。だから、夢に向かって進んで行ける。それだけで、私すっごく幸せなんです。」
「わたし、やっぱり誰かと何かをやってみたいんです。小さい頃に見たよさこいの一体感は本当に凄くて、何十人も居るのにみんな乱れず、それぞれが信頼し合ってるみたいで。コミックの中のヒーローもカッコいいし凄いと思うんですけど、みんなどこか孤独と戦っていて、でも私は、誰かと繋がっていたい。私の気持ちを分かって欲しいって思っちゃうんですよね。私は、そんなに強い人間じゃないから。だからこそ、ヒーローとかに憧れちゃったりするんですけど。」
よさこいとの出会い、よさこいの良い所、自分の願望、その理由、何故その理由に行きつくのか、全部言っている。 さらに、なるの友人、何でも出来て人気者なのにどうしてパッとしないなるとつるんで居るのか、自分の引き立て役としてなるを側に置いてるのか、はたまた蓋を空ければとんでもないサイコなのかと期待されたヤヤは、ハナと急接近するなるを見て自身の心情をこう吐露する。
「家に着くまでのふたりきりの時間、なるは私のくだらない自慢話や愚痴をいつも真剣に聞いてくれて、いつも私の肩を持ってくれた。だから、私は決めたの。 私もなるを守ろうって。私がなるを守ってあげようって。だから、絶対あいつなんかに私のなるを渡さないんだから。あれ?あれっ?嘘嘘嘘、私、もしかして嫉妬してる?こ、これじゃまるで小学生じゃない。何やってるのよ私ー。」
「本当は、ずっと分かってた。なるが悩んでる事も、何かしたいって思ってる事も。私はいつも知ってて、知らんぷりしてた。なるが何か始めてしまったら、私の側から居なくなるんじゃないかって、不安で。でも、やっぱりそんなの本当の友達じゃない。」
ここ。これが私にはとても奇異に映ったのである。みんな冷徹に自分の仕様と行動原理を把握している。若い頃なんてイケてない自分をイケてると錯覚したり、単に恋愛に興味があるだけなのに目の前の相手を何だか世界一愛してる気になったり、何故あの時あんな事しちゃったんだろう、とか、今思い返してみればあれは本心では無くてただ体面を保つ為に言った事だったとか、そういう勘違いまみれで出来ていそうな物だけど、この子たちは「自分はこれこれこういう人間で、その事を自分ではこう思ってて、今はこういう事を考えているのでこういう行動を取っているのです」と、凄い速さで徹底的に明かしてくれるのである。(辛うじてツンデレのヤヤの言動に行き当たりばったりの部分があるが、それは即座に否定されたり、訂正されたりする。)
登場人物の人となりは、それを読んだものが規定するのが当然であると思っていたので、この自己開示のつるべ打ちに意表をつかれた。
『北斗の拳』第1話でケンシロウが「俺は北斗神拳の継承者だったが、友人だと思っていた男にだまし討ちをされ女を取られたので復讐の為に旅をしている。しかしそれはそれとして、根がやさしく真面目なので道中困っている人が居れば助けたいと思っている」とは言わない。彼の過去は後に語られるし、彼の性格は自己申告ではなくその行動で視聴者が汲み取るのである。
また、先に述べたように本人の自己申告は大抵「本当の所に届かない」。その時の自分は、自分の認めたくない所を覆い隠そうとして別のストーリーをでっち上げたりする。その事に気付くのは往々にしてだいぶ後の事だ。自分は音楽が大好きなので、上京してバンドで有名になって一生音楽の世界で暮らしたいと思っていたけど、今考えると単に就職したくないだけだった、みたいな。最近読んだ中では『青い花』にその解の美しい例がある。主人公の”あーちゃん”は、自分に思いを寄せる友人”ふみ”に「つきあってみようか」と持ち掛けるのだが、それが自分の気持ちが言わせた言葉ではなく、単に相手の気持ちに合わせただけの好意だったことにしばらくして気が付く。「つきあってみようか」と言ったのは34話で、気が付いたのは48話である。(そしてこの着地点は最後にもう一度場所を移される)
理由というのは必要である。物語なのだから。けれど、それは今はまだ明かされなかったり、或いは本人が自覚してなかったり、または取り違え、考え違いをしていたりして、なかなか本当の所は分からない。物語が幕を閉じても、それが明確には提示されず、答えは受け手の中に委ねられる事も多い。登場人物も、読む方、観る方も、なかなか人の気持ちは量り切れない物である。
その中にあって、この『ハナヤマタ』の登場人物たちは凄い速度で自分の気持ちやその理由を開示してきた。本来本人たちの自己申告に信憑性はないのだが、この子たちのそれは少し毛色が違う。誤解の余地もなく”わたしはこういう人間です”と言葉にして宣言している。
もし今後話が進んで、ハナが「実はよさこいなんて好きじゃなかったのかも」とか、ヤヤが「あぁ、私が好きだったのは輝いてないなるで、輝いてしまったら別に用は無いんだなぁ」みたいな所に着地したら、それはこれまで数多描かれた「思い違いの自己申告」だった、という事になるのだけれど、どうもそういう予感は露ほども感じられず、多分これは確定事項なのだ。だとすれば、こんな風に徹底的に自己開示させた上でなければ描けない話というのは何なんだ、という所を、どうしようもなく確かめたくなるのである。
追記(2014.08.03)
しかしこの異常な開示性、文字に起こしてみるとあまり伝わらないのは何故だろう、と考えてみた所、つまり『ハナヤマタ』のキャラ立て(自己申告)は「文学」に近いのだな、という結論に達した。古典や現代ではなく「近代」辺りの文学。だから文字だけで台詞を追うと「少しアリ」な気がしてくる。例えば4話でも「西御門多美」なるキャラクターがいつものように自分の境遇と本心と、しかしそれを表現する事を阻害している原因を泣きながら理路整然と語ってくれたのだが、多分これ、「文学風」に書かれていれば普通にそういう物かと思えてしまうのではないか。
雨の中、膝をついて泣きながら「だって私は継ぎ接ぎだらけのお人形で」と詩的に形容するシーンのリアリティは現代日常系の中では異端中の異端だが、文学の中でならすんなりハマりそうだな、と得心した。