”人間は日常生活に於いてさほど順序立てて話さない”という事を初めて意識させられたのは、清水義範の『ビビンパ』を読んだ時だったかと思う。所謂平均的な家族、父親・母親・息子・娘が近所の焼肉レストランでアレを食え、これはサニーレタスじゃないだろう、2つで丁度いいのよ、最近の若い奴はオイルショックも知らん、みたいなどうでもいい話を延々繰り広げて終えるだけの話である。「実際の日常会話というのは得てしてこういう要領を得ない話し方になるよな」と、作者が書いていたのか自分がそう感じたのかは忘れたが、これが一つの契機となった。フィクションの中の台詞を疑う、という習慣の始まりである。
そういう目で見始めると物語の登場人物達がどんな時にも「誤解が発生しないように、主語や述語をくどい位に繰り返し、読む者聴く者に分かりやすく話してくれている」事に気付く。他愛のない日常を舞台にした作品においてもなお、彼ら、彼女らは物の数分の会話シーンでそこに居る人間の名前、話題の人物との関係、騒動の顛末をありありと語ってくれる。まるで文筆を生業とする人間が細心の注意を払って組み立てた台詞を読み上げているのではないかと錯覚してしまう程に。
フィクションは(特別な意図を介在させない限り)読む者を誘導し、裏切り、また別の場所へ手を引いて行く物であるから、登場人物の台詞がいちいち曖昧では困る。フィクションがその名の意味する所と裏腹に如何にきっちり構築されているかを知る為には、試しにその辺のマクドナルドなりファミレスなりで駄弁っている女子高生グループの会話を盗み聞きしてみると良い。30分後にそこに居るメンバー全員の名前が分かったらそれは相当運がいい。そのくらい、本来の日常会話は「第三者を疎外する」。フィクションの中で交わされる会話は、実際?に有った会話を垂れ流している訳ではなく、読者・視聴者の為に「翻訳された台詞」を登場人物がアフレコし直しているような物である。
また、誤解を排斥する為ではなく、単に作者がどこかで読んだことがある台詞を何も考えずに登場人物に「言わせてしまう」事もある。通常使われる日本語の語彙と組み合わせは、ある領域に高密度に集中するのでAさんとBさんが同じ台詞を言う事は不思議ではないのだが、それがキャラクターの在りようとはまるで関係ない所で唐突に繰り出されると「そんな台詞と返しはこの間も見た……」とげんなりしてしまう。その台詞は登場人物に相応しい物なのか、単に作者の気分に合う物を引っ張ってきただけなんじゃないのかと問い詰めたくなるようなやり取りは見過ごせない程多い。この借り物が「理路整然」とした分かりやすさを備えていた場合は尚更「創作感」が増す。
誰もがストーリーを把握出来るように台詞を正確にする事と、登場人物の口から活きた言葉を紡がせる事はしばしば相反するので、私はそこの匙加減、舵取りを「製作者がこの作品にどのくらいの真摯さで対しているのか」を量る為に重要視してきた。何かを読んだり観たりしている時は自然と次の台詞の候補がいくつか脳内で自動的にリストアップされ、その中の「いい方」にヒットすれば良い台詞、候補以下のありがち台詞が出たら残念な台詞というように、選別作業は常にバックグラウンドで実行されている。そこで”活きが良過ぎて候補に上げられなかった。言われてみればこれしかない。”と思えるような台詞に巡り合うのは稀である。
随分前置きが長くなってしまったが、つまり稀だからこそ、現在放映中の『ゆゆ式』の話をしたいのである。
スキップする思考
『ゆゆ式』の登場人物が紡ぐ言葉は非常にスリリングで、例えば第1話の冒頭、まだ名前も明かされていない女生徒が、高校の制服を着た自分の姿を見た友人たちの反応を想像するモノローグがこれである。
「……この制服……似合ってんのかな……すごい、違和感あるんだけど……」
「……ゆずこは笑うなぁ……ゆかりは……まず、携帯を封じて……写メを撮らせない」
一人目の”ゆずこ”の反応を想像している部分は「ゆずこは」「笑う」と、友人の行為について言及しているが、二人目の”ゆかり”の段になって「ゆかりは」「まず携帯を封じて」となっている。「携帯を封じる」行為の主体は「自分」であって”ゆかり”ではない。”ゆずこ”の時のフォーマットを、直後の”ゆかり”では採用せず、途中をスキップして「勝手に」自分の話にしている。本来ここで想像されたのは
「ゆかりは(やおら携帯を取り出して自分の制服姿を撮影しようとするだろうから)まず携帯を封じて」
という話である。しかしこの省略された部分は彼女の頭の中で想起され、認証され、そこは重要ではないのですぐさま「自分がどう行動するべきか」という部分に意識がフォーカスしている。結果、一人目と二人目で文章の構造が何の断りもなく変更される事となった。彼女は自分の都合で喋っているので、視聴者が一瞬混乱する事などまるで気にしない。そもそも一段目の”ゆずこは笑うなぁ”という部分も、書く側からすれば”ゆずこは笑うだろうなぁ”と、念を押したくなる箇所である。
文章にすると文末まで一望出来るのでさほど違和感は感じないかも知れないが、次の台詞が読まれるまでどこに着地するか分からない音声台詞においては、これは採用するのに勇気が要る台詞である。これを(”ゆずこ”も”ゆかり”も知らない人間が居る)第1話の冒頭に持ってきた度胸と、そのリスクを踏まえてなお、キャラクターの自由を制限しなかった決断に唸った。
思考の一部をスキップして、強引に(というか日常会話の緩さに則り自然に)センテンスを省略するセリフはその後も随所に出てくる。第2話で胸の小ささを嘆いていた主人公達の前に現れた、通称”お母さん先生”こと松本先生に詰め寄るシーンでもキレのある台詞が登場した。
「すみません、先生の胸がうらやましいだけなんです」
「あぁ、そういうことなのー。大丈夫です。先生も高校生の時に、大きくなりましたから」
「へぇ〜」「そうなんだぁ。お母さんは希望だぁ」
「お母さんは希望だ」。初めて聞く日本語である。スキップ前の台詞は恐らく「お母さんは(私たちの)希望だ」という台詞であり、この(私たちの)という単語を「入れておきたくなる」誘惑はとても大きい。そこを、切った。
或いは第4話で徹夜明けの激烈な眠さを超えてしまった”ゆい”がおかしなテンションに到達してしまい、調子に乗ったゆずこに「おっぱい触らせて?」と頼まれた所で返した台詞
「ハハッ、ここじゃお前……部屋でな」
- シナプスの命じるままに単語を出力する櫟井唯
滞る事なくリアルである。寝不足でゲロゲロになった人間の怠惰さが「ここじゃ」「お前」「部屋でな」という3つの単語の連なりに凝縮している。
同じく第4話でゆずこに「母親が居ない」という捏造話を吹っかけられ「わたしのお母さんになってよ」と懇願された時の”お母さん先生”の脳裏に走った(これ、どっち?)という心の声。「どっち」と言いながら、それが「何と何の二択なのか」は視聴者には示されない。恐らく「ゆずこには本当に母親が居らず、真剣に請われている」のか、「これはいつもの与太話であり、軽妙に返す事が求められている」のか判断に迷っての(どっち?)だと推測されるのだが、その外堀を埋めずに一発でこの台詞を出してくる足の速さは見事である。
スキップではないけれど、第3話でゆかりが口にした「わたし死んだら、色々ごめんねぇ」
という台詞も、キャラクターに即した良い台詞だった。どんなに仲が良くてもたかが学校の同級生、直接の利害関係が有る訳でなし、自分が死んだとして目の前の友人たちに致命的な損害が発生したりはしない。ただ、悲しまれるだけという自由な関係性の中で、それでも何らかの謝罪をしておこうと探して掴んだ言葉が「色々ごめん」なのだろうな、と想像させる。とても豊かな言葉だと思う。
フィクションの登場人物たちは、その気になればまるで本人の意思を無視してこちらの都合の良い事を話してくれる便利な道具である。彼らは人間のフリをしながら、その実、作者の目的を遂行する為に押しつけられた台詞を話し、時には間を持たせる為に不幸な目に遭ったりもする。
けれどその一方で、作者の思惑を超えてそこに生きて欲しい、自律性を持って欲しいと願われる事もある。役割と願いは衝突する事が多いが、そこを丹念に擦り合わせて役割を引き受けて貰うのに見合うだけの自律性を贈る事は出来るのだと、改めて諭してくれた『ゆゆ式』の台詞たちに敬意を表したくて、まだ放送終了していない作品を褒めちぎってしまった。『ゆゆ式』にはもう一点、台詞選びと同じくらい丁寧さで群を抜いている色指定・色調整についても語りたい事があるのだが、それは私の苦手分野にかかる事なので、誰かその道に通じた人が指摘してくれるのを待つことにする。