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漫画家は自分の漫画を「読める」のか

作成年月日
2012年12月29日 15:40

先日twitterで”エロ漫画家は自分の漫画でヌけるのか”と言うトピックが流れて来ました。決して初めてではない、これまで何度か議論になった設問です。その時私は何も考えず、いつものように「余裕余裕」と答えたのですが、この問答が丁度ここ最近考えていたセンテンスとリンクしたようなしなかったような感じで、それから半日、この議題とそこから飛び火したイメージで頭の中が占領されてしまいました。

先のトピックに対しては、漫画家はそのページの製作過程を知り過ぎていて、それがノイズになって作品に没頭出来ないのではないかという懸念が示されました。それはとても良く分かる話です。また、製作してから年月が経ち、「ダメ脳内補正」が消えて第三者と同じ目で自作を眺められるようになった時、そこに出現する「見るに堪えない絵」に打ちのめされ、とてもではないがページをめくれない、という凶事に関しても、そのハードルの高さについては多くの賛同を得られると思います。こう考えて行けば、確かに漫画家は自分の作品を読むのに”向いていない”。それはもう、前提として共有してもいいかとすら思う程なのですが、それだけでは話は終わらない。終わって欲しくない。もっと手前にある前提について、今一度掘り返して、あわよくば最近考えている事と繋げたいと思う訳です。

つまり、漫画家は、自分の漫画が好きなのだ。と言うお話です。

まず、先の設問を広く「自らの成果物を本人が楽しめるのか」と設定してこのジレンマがどの程度の物かを想像する為に以下に書き出してみます。例えば「映画監督は自分で撮った映画を楽しめるのか」。なんか難しそうな気がします。では「農家は自分の畑で獲れた野菜を美味しくいただけるのか」。これはどうでしょう。さほど問題なさそうな気がします。「苦労した分、美味しさもひとしお」みたいなキャッチコピーを付けてもいいような。では、「漫画家は自分の漫画を楽しめるのか」。これは?苦労した分、楽しさもひとしおにはならないのでしょうか。

これは要するに、達成度をどの程度の所に想定してそのシチュエーションを想定するのかという事と、「批評眼」の問題だと思われます。

達成度の問題と最初の読者

漫画家や小説家が自作を愉しめるかどうかという設問に回答する時、そこには「納得がいかなかった箇所がある場合」が想定される事が多いと思います。物書き(描き)はいつも悩んでいるもの、というイメージがあるのでしょう。”楽しめるだろう”と想像した「農家」に関しても、そこに「美味しく出来ました」という収穫のイメージを与えてこのジレンマを回避しているだけで、もし都会から田舎へ居を移し、慣れない畑仕事を必死で勉強しながら作った野菜や果物がひどい出来だった場合は、「美味しくいただける」とは思えません。このジレンマは「出来が自分の理想に(遠く及ばなかった場合/僅かに及ばなかった場合/理想通りになった場合/理想以上の物になった場合)」と、異なる達成度を想定しなければならない筈です。

現実には、創作者が自作に対して「完璧だ、これ以上の物は絶対に作れない」と確信を持てる幸運に恵まれる機会はさほどありませんが、いついかなる時でも成果物が「理想以下」だと決めるのは乱暴だと思いますし、仮に理想と同等・それ以上の場合を排除したとしても、「遠く及ばなかった場合」と「わずかに及ばなかった場合」では違う筈です。

何かに習熟すればするほどその奥深さや可能性を知り、まだ届かない部分や誤った選択を反省する機会は増えて行きます。しかし、それ「だけ」が何かを上達する事で得られる糧であるなら、創作者は自分の作品に相対した時に「足りなかった部分を見せつけられるだけの存在」なのでしょうか。

これは少しばかりの経験と、後は若干の希望に拠る意見ですが、私は「そうではない筈だ」と思うのです。何故なら、その漫画家は「他人が描いた漫画を読むだけでは満足出来なかった者」だから。漫画が好きで沢山漫画を読んで来た彼や彼女は、けれどそこでは終われなかった。自分の漫画がないこの世の中を、受け入れる訳にはいかなかった。

この世で最初にその漫画家の漫画を切望したのは、間違いなく本人である筈なのです。

読む事と描く事の境界線

お恥ずかしい話ですが、私が漫画家だった期間は雑誌換算で僅か10週でした。それ、漫画家か?と言われると返す言葉もありませんが、自分から見れば「よくあんな有様でそこまでこじ開けたね」と素直に思います。子供の頃から絵が上手いなんて一度も言われた事なかったし、実際下手だったし、高校卒業する時に東京に行って漫画家になりますと言った時は、クラスの人間も家族も、要するに世界中の人間全てが「そりゃ無理だ」と太鼓判を押してくれました。自分では結構いけてると錯覚していたのでショックでしたが、まぁ皆の見る目が無いのだろうと判断しました。

友人に誘われて同人誌を出してみたり、持ち込みをしたりしながら運良く担当が付いて、少しばかりアシスタントを経験した後、コンペで通って原作付きの短期連載の仕事を貰いました。その頃はとにかく「漫画を描く」という事がこの世の何よりも大変で、それがいきなり連載とか大丈夫なのか、間に合うのかと思いましたが、すぐにまぁ何とかなるのだろう、と思いました。実際、とても口に出来ない様々なトラブルやアクシデントや色々な思惑が交錯してそれはそれは死にそうだったのですが、でも何とかなりました。準備期間を多めに取って貰えた事も幸いし、無事に最終話を描きあげた時の爽快感と言ったら無かったです。「すげぇ……俺明日から寝てもいいんだ……」みたいな事を考えたような気がします。

漫画を描くのは大変だ、と言うのは今もあまり変わっていませんが、描く楽しさはどんなにしんどい状況でも減じませんでした。眠いし時間はないけど、自分の絵で、自分のコマで、あと、今思うと迷惑をかけたなぁと思うのですが原作者の方にお願いして「ここはどうしてもこうしたくて、後、ここの台詞はこう言わせたくて」と、割とこちらの無理を聞いて頂けて(ホントすみませんでした)、最終話は時間もなくて連絡も入れずに勝手な事を描いたり(ホントにすみませんでした)そういう悪辣な事をしつつも、原稿を上げた後の達成感と言うのは格別でした。で、そういう懺悔は置いといて、果たしてその時に味わっていたこれは「描く楽しみ」なのかな?という話を、今したいのです。漫画家は、「描くのが楽しい」んだろうか、と。その答えは、当時の私は気付きませんでしたが最終話が掲載された号の、さらにその次の号を本屋で見かけた時に与えられたました。

「あれっ?どうして俺の漫画が載ってないんだろう」という違和感です。こないだ最終話を描いたからに決まっているのですが、それが分かっていても不思議というか、その光景は受け入れがたい物でした。まるで自分が呼ばれていないクラス会の現場を偶然目撃したような感じ。あれ、どうして俺呼ばれてないの?みんなで何してるの?っていう。それは悔しさではなく、本当に純粋に「……おかしいな」という困惑でした。何故かその雑誌には、私が一番読みたい漫画が載っていないのです。

私自身もそうですし、私が見て来た漫画家もだいたい同じですが、基本的に漫画家は漫画をあまり読みません。自分の趣味にどストライクな漫画家の作品と、ちょっとこいつぁやべぇなと思う作家を数人チェックしている位で、世に言う「漫画フリーク」の読者に較べたら全然読んでないと思います。読めと言われれば読めるのです、多分。ただ、他人の漫画より、或いは先週上げた自分の漫画より、もっと面白そうな漫画を知っている。原稿にもなっていないし、まだどこの雑誌にも載っていないけれど、「来週描く自分の漫画」を早く読みたいのです。それが面白いかどうか、上手く行くかどうかは本人にも分からないけど、ページの端から端まで自分の好みで埋め尽くされ、自分がワクワクするような展開で綴られた世界一”自分が楽しめる漫画”がきっとそこに有る筈だから。

漫画を描くというのは、結局amazonに注文して本を送って貰うのと同じ行為だよな、と思います。読みたい漫画が有るけれどそれはどこにも売ってないし、それがどんな漫画なのかはまだ良く分からない。仕方ないので頭の中のamazonさんに注文する。頭の中からネームが届いて、下描きが届いて、ペン入れしてトーンを貼って、やっと形になる。「描きたい」と「読みたい」は同義だと、今の私は考えます。作者が自分の漫画を好きで、自分でそれを読みたいと思わなければ、脳内amazonに注文が行く事はありません。

やっと最初の話に戻りました。漫画家は、と書くのももう相応しくないのでこう言いましょう。私は、自分の漫画が好きなのです。

まとめ

技術を向上させる為には、自らの成果を正確に評価する事が大事だと思います。絵を描く事であれ、ギターを弾く事であれ、自分が出力した物を「他人と同じ眼で見る」という事以上に本人を助けてくれるものはちょっと思いつきません。けれど、それは別に「世界一意地悪な目線を持った他人の目」である必要はありません。料理人が自らが調理した料理を食べて美味しいとは思えないのか、という設問に対して、私は「ノー」であると思っていますし、それを「味わえない」ようではその料理人の先行きは暗いと思います。

「客観性」は大事ですが、自作を前にして欠点しか目に付かないようなのはそれこそ「客観性」から遠い状態です。「あるがままに見る」と言うのは長所も短所も分け隔てなく目に入るという状態である筈です。

私は、漫画描きは自分の漫画を好きでいていいと思うし、そうあり続けて欲しいと思います。「好き」なだけでは足りない事もあるけれど、「好き」が足りなければ続かない。自作を正しく評価しながらそれを味わう事は可能だと思うのです。