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情報と形質の相克(私たちは一体何にお金を払ってきたのか)

作成年月日
2012年05月06日 11:23

発端

”どうしても楽曲配信(iTunes store等)で曲を買うのに馴染めない”。これがここ数年、私が困っている事のひとつです。既に何十曲も曲を購入し、その便利さを全身で享受していながらも、心のどこかに満たされない感覚がある。多分この感覚は珍しい物ではなく、一定年齢以上の人には容易く理解していただける物だと思います。店に出向く事なく、手では触れられない物を購入、所有する事に抵抗を感じる人種はきっと多い。

その抵抗を、私は「まだ慣れてないからだろう」と片づけて来ました。貨幣経済が複雑になり、世に情報を売り買いする場面が増えてきたとは言え、人間は長い長い間「触ることの出来る物を手に入れ」身体感覚や所有欲を満たしてきたのだから、触れない所有物のパーセンテージが急速に増えた時に人間の心理がどのような影響を受けるのかという問いは、この先何百年も経たないと答えが分からない訳です。

しかし、絵や漫画、或いはこの記事のような、何某かの情報を織る”書き手”としては、その落としどころには承服しかねる部分もありました。表紙の紙選び、フォントの指定、本文のマージン、そういうデザインが人に何かを伝える際に大きな役割を果たす事は論を俟たないと思うのですが、そこが期待通りに調整された情報でありさえすれば、購入経路がどの道筋だろうが、結果に差はないと思いたかったのです。買ってきたCDをPCに取り込んで再生した時と、iTunes storeからダウンロードして再生した時に聴いている音がもし寸分違わず同じ波形だとしたら、私の心を喚起する何かの量もまた同じであって欲しい。これはつまり、自分が描いた漫画を誰かが読んで、その中に何かが生まれたら、それを引き起こしたのは「漫画そのもの」だと思いたい、という願望の裏返しでもあります。

こうして書いてみれば矛盾した話です。私自身がダウンロード購入した楽曲に抵抗を感じているのに、自分が描いた漫画やテキストには、それらに拠らない「普遍性」を与えたいと思っているのですから。

そんな折、とある同人誌即売会に呼ばれました。急な要請であり、また手っ取り早く原稿に出来るストックが無かったので2カ月で本を作らなくてはなりません。恩のある人からのお誘いという事で、ご無沙汰していた間自分が何をしていたのか、という事を余さず伝えられる本を持って行きたいと思いました。となると、そのソースはこのサイトを始めネットに描き散らかした物しかなかった訳です。何せ絵も漫画も文章も全部全力でネットに吐き出して来たのですから。

幾つかの候補を同時作業で進めつつ、その進捗状況を見ながら最終的に「ネットに描き散らかした小噺を漫画にした本」と「ネットに書き散らかしたアニメの感想を収録した本」の2冊を持参する事になった訳ですが、ここで問題が起きます。「アニメの感想を収録した本」は、まさに今この記事が置かれている「unlimited blue text archive」というサイトで、無料で読めるのです。ネットでいつでも読める物を、お金を出して買って貰う事が許されるのだろうか、という問いに対しての答えを早急に手に入れる必要が出てきました。

また、今回の即売会の為に描いた漫画は、お金を取って売ってしまったら最後、もうネット上に公開出来なくなるだろうか、という懸念も発生しました。それは、お金を出して買ってくれた人に対する裏切りだろうか、と。

時間は前後しますが、丁度この頃、東浩紀氏が「無限に複製可能なデータに、金なんか払うわけがない」という趣旨の発言をして話題になりました(参照:東浩紀「情報そのものを売ってマネタイズするのが不可能。無限に複製可能なデータに、金なんか払うわけがない」)。この中で語られた以下の一文、

みな根本的に勘違いしているのですよ。ネットの登場で流通コストがゼロになる可能性が見えた。そうなると情報の発信者と受信者が直接に結びつけば両方得をすると思い込んだ。でも実際は、情報をお金に結びつけていたのは、その無駄だと思われていた中抜き産業であり流通産業なのです。

この発言が私の中に強烈な疑問をもたらしたのです。「私は一体今まで『何に』お金を払っていたんだろう」と。

私が誰かの漫画を買った時、私は「漫画」にお金を払っていたのだろうか。それとも「本」にお金を払っていたのだろうか。私が誰かの歌を買った時、私は「歌声」にお金を払っていたのか、それとも「CD」にお金を払っていたのか。問いの形を変えてみれば「つまり私は『何に』お金を払いたいと思っているのか」という事です。

買い手の物語

前段でiTunes store で楽曲を購入する事に抵抗があると書きましたが、しかしその方法で買った楽曲は(僅か数十曲ですが、自分としては)結構多いのです。けれどそれと並行して、今でもCDを買う事も多い。ダウンロード販売とCD販売の両方が用意されている曲に対して、私はどちらで買うかを選択出来、実際「あるルール」によって購入方法を選んでいるのでしょう。そのルールがどんな物なのかを今まで意識的に定義する事をせずにやり過ごして来ましたが、この問題を考える内に一つの結論に達しました。

私は、自分が主人公になりたい時に、店に出向いて現物を買ってくるのです。

まだ恐竜が歩いていた位の大昔、私は谷山浩子のコンサートを聴く為に屋久島まで一人旅をしました。都内のコンサートにも足しげく通っていたのに、わざわざ屋久島くんだりまで出かけたのです。好きな歌手のコンサートを観る為にわざわざ九州の果てまで行く。この時の私はそのシチュエーションだけでいい気分になれました。今となってはその時のコンサートで何の曲が歌われたのか全く思い出せないのですが、その時の空気、フェリーの雑多な船室、宿でコンサートの開演時間まで時間を潰していた時の窓から見た景色、そういうモノは今もきっちり覚えています。

一方、PCの前に居ながらズボンから財布を取り出す事なく購入した楽曲の内いくつかは、その曲を買おうと思ったきっかけを思い出せずに聴いていたりもします。勿論、CDで買った物の中にもそういう物はあるのですが。

これが東氏が言う”体験”に相当するのかも知れませんが、より明確に定義するならそれは”自分が主役になれる物語”を差し挟む余地があるかどうか、と言えるかも知れません。あるかないか分からないまま本屋に出向き、棚から棚へ目を滑らせて目当ての本が見つかった時、そこにいる自分は確かに「幸運な主人公」足りえるのです。これがダウンロード販売では、それと望んだ人間すべてに「同じ結果」が約束される為、自分がモブキャラに成り下がってしまう。利便性と全能感はトレードされる訳です。

私はコンテンツを買う時に、自分もその中に参加したい時は実物を買いに、それを必要としない時はダウンロード販売やネット通販を利用していたのです。

先の東氏の発言で触れられた”無駄だと思われていた中抜き産業であり流通産業”は他者の手に拠る物だけでなく、自ら加担して”手続きを煩雑にする行為”も含まれていると、私は考えます。私が、私に対して”流通をコントロール”し、中間マージンを手にしていた訳です。

情報から価値を奪う

そこまで決め打ち出来た時点で、私が考えるべき事は「ネットでいつでも無料で読める物を本にして売っていいのか」という事から「情報と形質、それぞれの一番幸福な形とはなにか」へとシフトしました。今現在、形質で売っている方は「初回限定特典」等のボーナスを付ける事で、情報のみの媒体との差別化・共存を図るケースが目立ちます。CDのライナーノーツなどは最初から与えられているアドバンテージと見做せるかも知れません。

またデータ販売物は海賊版・違法ダウンロードの取り締まりなど、不正にそれを入手し得る手段を取り締まる事で、辛うじて残った「物語性」を保持しようとしているようです。お金を払わなければ手に入らない、というのは、購入者がモブキャラに落ちない最後の砦、他の者が無料で手に入れているのに自分だけお金を払って入手していたのでは、モブ以下に落ちてしまうと考えているのでしょう。いや、単に売上を確保する為の方策と考えているかも知れませんが、「違法入手する人間は、その手段が断たれた所で正規購入しない」という主張も一定の割合で正しいと私は考えていますので、これはやはり「正規購入する人間が絶滅しない為」と見做す方がすっきりします。

余所様は余所様のやり方があるので、私は「こうあるべきだ」と言う気はなく、「私が、この二つ(情報と形質)をどう取り扱うか」という点をはっきりさせなくてはいけません。私は気が向いた時に、何の見返りもなく情報をアップしたいと望み、本を作ったら絶対原価割れする価格設定はしない(だいたいいつも割高になってしまう)という相反する欲求を持っています。そして、この2つのポリシーをどちらも手放したくないのです。

本にするならその内容は公開しない。そうしないと買ってくれた人が損をする、という事であれば私は本など作りたくはありません。情報自体を課金制にし、データでも現物でも同じように価値を設定する、という手段も採りたくありません。そして本を無料配布にし、印刷費等は全て持ち出しにする、という選択肢は最初から除外です。今挙げたどのやり方も、私が何かを描く時の自由度を奪います。

結局、私は「ネットでいつでも無料で読める物を、割高の価格設定で売りつける」という選択をしました。そうする事で、それぞれの形が一番幸福に近づく事になると思ったからです。情報から価値を根こそぎ奪い、形質に全ての価値を与えました。

私は今回の試みと同じ事を、この先も気が変わるまで続けると思います。具体的に言うと、以下の3点。

私はネット上で気軽に読みたい人の意志を尊重すると同時に、炎天下や極寒の下、即売会の列に並んで本を買いに来た人の物語性も奪いたくないし、そのどちらを選ぶかを「内容の多寡」で選択を迫りたくもないのです。

私が(合法・違法を問わず)無料で手に入れられる物を、お金を払って手に入れる時、私は損をしているのでしょうか。そんな筈はないのです。私は(ネットからなら僅かばかりの、現物を手に入れる時は大掛かりな)物語性を担保する為にお金を払って、自分から中間マージンを搾取しているのですから。

なので、ネットの情報は「誰でもいつでも」、本の体裁は「即売会でお金を払う以外に入手出来ない」ようにしました。沢山の方に本を頂きましたが、お返しに一冊の本も差し上げなかったのはそういう理由です。いつでも無料で読める物を詰め込んだ本を無料で配ってしまうと、その物語性を維持出来なくなってしまうから。同様の理由で「本の通販」という事も考えていません。それをするなら最初からネット上で閲覧して貰えばいいのです。

この考え方に賛同が得られる確率はちょっと低いかな、と思っているのですが、私が自由に適当な物を描き散らかす裁量と、即売会まで足を運んでくれた人に自信を持って(ネットで無料で読める内容の)本を手渡す矜持を持ち続ける為には、こういう落としどころしかないのです。勿論本を頂ける分にはウェルカムで、「わぁい」って言いながら有り難く戴いてしまいますが、お返しは出来ないのです。ホントに申し訳ない。(こうしてまた顰蹙を買っていく訳ですが)

今回の一件は、描く側からとしてではなく、買う側から見た漫画、売る側から見た漫画について非常に多くの事を考えさせられました。web漫画が出版社の目に留まり、本という形で世に出た後も、変わらずネット上でその全てが読める状態で維持されている物もあります。本という「呼び出し機能もなく、場所を取り、保存性も悪い」媒体が一番幸せな状態で誰かの手に渡るとしたら、それは読み手の物語性が最大限発揮された時だと信じて、(もし機会があれば)また今回と同じスタンスで本を作ろうと思います。

追記:上記理由により、即売会で販売した漫画を全頁アップしました。
「調子はどうだ、ご主人」 url: http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=27064699