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劇場版ポケットモンスター 水の都の護神 ラティアスとラティオス

作成年月日
2011年09月07日 00:15

先日スカパーで「劇場版ポケットモンスター 水の都の護神 ラティアスとラティオス」を観た。我が家は現在、家族全員が洒落にならない位にポケモンにはまっており、公開中の映画は言うに及ばず、東京タワーで行われたイベントやポケモンセンターに足を運んでグッズを買い漁ったり、朝から晩までポケモンカードバトルのデッキを考えたり、地上波とスカパーとレンタルDVDを駆使して毎日テレビからポケモンが流れているような酷い有様なのだが、その一環としてキッズステーション恒例の”劇場版ポケットモンスター一挙放映”を全チェックした折に出会ったのが、この「ラティアスとラティオス」である。

実はポケモンにはまる以前にも劇場版ポケットモンスターシリーズは何度か目にした事があり、その時に抱いた感想は「絵作りは丁寧だがストーリーが破綻している」という物だった。それはポケモン世界に通じて居なかったせいなのか、それともどっぷり嵌まった今観ても同じ感想を持つのか確かめてみよう、と言うのが今回再チャレンジした理由の一つでもある。で、結果はどうだったのかと言うと、今観ても変わらなかった。やっぱり破綻していたのである。いくつかの作品を除いては

勿論この「ラティアスとラティオス」は”除かれた側”である。他にも褒め称えたい作品が後に控えてはいるのだが、この作品の瑞々しさ、一筆書きのようにコントロールされた物語に初めて触れた時の感動は、他のシリーズ作品では味わえない物だった。約70分という短い尺の中で描かれた配慮と技術をなるべく取りこぼしなく記す為にまたもやネタバレ全開で臨みたいと思うのだが、今回は”未見の人は読んではいけない”とは書かない。ストーリーの詳細を知った後で観ても、この作品がそれらをリアルタイムで消化していくダイナミズムに触れる感動はいささかも減じないと信じているからである。

ストーリーの概要

まずは「ラティアスとラティオス」がどんな話なのかを完璧に把握して貰いたい。でないと次章からの記述が”どう効いていたのか”が伝わらないからだ。

旅を続けるサトシ一行は、水の都と呼ばれる美しい町、アルトマーレにやって来た。この町には”過去にこの町を襲った邪悪な怪物をラティオスとラティアスというポケモンが追い払った”という言い伝えが残されており、島の船着き場には彼らの像が象られている。

水上レースで惜しくもリタイアしてしまったサトシは観光のさなか、女泥棒の二人組「ザンナーとリオン」に襲われている少女を助ける。一度ははぐれたものの、大聖堂で再び彼女を見かけたサトシは秘密の庭園に導かれ、そこで彼女こそが言い伝えにある「ラティアス」である事、大聖堂で会ったボンゴレと、ラティアスの人間形のモデルになったカノンが、この庭園でラティアスとラティオス、及びこの町に伝わる「こころのしずく」という宝石を守り続けている事を聞かされる。

サトシがポケモンセンターに帰った後、庭園を「ザンナーとリオン」が強襲。ボンゴレ、カノン、ラティオスと「こころのしずく」までもが敵の手に落ちてしまう。単身脱出してきたラティアスに乞われたサトシは、ピカチュウと共に大聖堂へ向かうが、リオンが「こころのしずく」とラティオスの力で発動させた「アルトマーレの防衛機構」がサトシ達の行く手を阻む。

苦難の末大聖堂に乗り込んだサトシ達の奮闘により「アルトマーレの防衛機構」はその活動を停止するものの、ザンナーがうっかり「こころのしずく」に手を触れた事により、防衛機構は”ここが侵略者の手に落ちた”と判断。町もろとも敵を滅ぼすべく、水平線の彼方から巨大な高波が押し寄せて来るのだった。

これがストーリーの概要である。テレビ版には出てこない特別な町を舞台に、レアなポケモンと心を通わせ手助けする、というパターンは他の劇場版とほぼ共通だが、調理のきめ細かさが違う。いつも通りのフレーズで恐縮だがまた言い切ってしまおう。

配慮がずば抜けているのだ。

視聴者を躓かせない手続き

【水道をきっちり締めて後を追うサトシ】

例えばサトシがラティアスと出会った後のシーン。水を浴びていたピカチュウが不穏な気配を察して駆け出した後、サトシは水道の蛇口を止めてからピカチュウの後を追う。サトシはまだ何が起きてるのか分からないのでこの状況を「水道の水を出しっぱなしにしてまで駆けつける程のエマージェンシーではない」と判断している事を示すべく、また、止めずに行った場合に視聴者の心に湧き立つ「おい、水止めてかなくていいのか」というノイズを発生させないように配慮されたアクションである。

或いは一度見失った少女を大聖堂で見かけたサトシが(実際はここで見かけたのはラティアスではなくカノンの方だったのだが)、慌てて後を追おうとした時。この時もサトシの行動を訝しがるカスミとタケシに対し、「ポケモンセンターに先に帰っていてくれ」と叫んでからその場を離れている(注1)。この後しばらく別行動になる彼らに対し、視聴者が「今頃あの二人はサトシを探してうろうろしてるんじゃないのか」という心配を起こさせない為である。

大聖堂ではその他にも

と言う大変な作業を何の違和感もなく終わらせているのである。ここまでに済まされた準備と配慮の数々は、例えそれが無くても”子供向けだから”と言う事で免責される可能性もある位の些事だが、あると無いとでは感情移入のスムーズさが格段に違う。

【ラティアスはサトシを持ち上げては飛べない】

秘密の庭園でひとしきり遊んだ後、そのままの気分でラティアスがサトシを持ち上げて飛ぼうとするシーンも、後に大聖堂に向かう時に水上レースのボートを使うシーンで効いてくる。この時点では視聴者はそんな事が起きるとは思っておらず、後になって(もし運良くこのシーンを覚えていれば)「あぁ、あれはこの為に用意されたエピソードだったんだ」と気付くかも知れない。

だが、例えその二つのシーンを意識的に関連付けられなかったとしても、このシーンの印象は微かに記憶に残り、サトシが「水上ボートを使う」という選択をした時に、視聴者がそれをすんなり受け入れる素地となるのである(注3)。

尺が短いので変な唐突さを回避するためには「万全の準備を」「スピーディーに」「順序良く行わなければならない」のだが、この「ラティアスとラティオス」においてその手順は完璧である。1度観ただけでは見過ごしかねないさり気なさで随所に気配りがされているので、繰り返し観てストーリー構築の妙味を味わっていただきたい。

分かりやすさに阿らないディレクション

後に起こるエピソードをさり気なく準備する脚本、キャラクターの行動を最大限適正化する演出に加え、劇場版という事で”攻めたカット割り”もあちこちに用意されている。オープニングの水上レースシーンもグリグリ動くCG背景とスケール感たっぷりのカメラワークが眼福だが、注目して貰いたいのは「サトシがラティアスと共に大聖堂へ向かうシーン」である。

庭園を強襲されサトシに助けを求めてきたラティアスと共に、最初はゴンドラ、次に水上レース用のボートを使って(注4)大聖堂へ向かう途中、プテラを退けカブトプスの追撃を受ける場面の計5カット。カメラは常に遠目から状況を捉え続け、キャラクターや破壊されたオブジェクトに寄る事なくスピーディなアクションを貫き通す。子供向けアニメや低予算深夜アニメ、駄目ハリウッド映画が良くやるような「細かくカットを切り替えて毎回足し算をリセットするような愚」を犯さず、一番の盛り上がりどころをたった23秒ほどでお腹いっぱいになるように盛っているのである。

カブトプスが登場するファーストカット、画面左方向に向かい猛スピードで移動するサトシをフォローするカメラは水路の脇に立つカブトプスを一瞬だけ捉え、その姿はすぐに画面右外へと消える。その光景と鳴き声に一瞬違和感を感じたサトシや、再度画面に登場しサトシに攻撃を加えるカブトプスに対してもアップのカットはインサートされず、カメラはずっと同じポジションに留まり続ける。

2〜4カット目は水路のチェイスを画面奥→下→上方向へと向きを変えながら捉え続け、5カット目では縁石に乗り上げてよろけるサトシに躍りかかるカブトプス、それを間一髪で避けるサトシ、絶体絶命のピンチに駆けつけカブトプスに体当たりをするクロバットという畳み掛けるアクションを”画面を全く動かさずに”描き切る。

”子供にも分かるように”と配慮した結果ついついくどいカット割りが横行するこのジャンルにおいて「ラティアスとラティオス」はそこに過度に阿る事無く、最適と思われる方法を選択する。先に触れた「エピソードの準備」にしても、その描写は決して押しつけがましくない。ラティアスとサトシのファーストコンタクトがオープニングの水上レース中に行われた事はラティアス達がステルス状態だった為に最小限の情報しか与えられず、サトシ自身、その事には気付かず終いだったと思われるし、ラティアス達が飛翔すると回る風琴の仕組みも、最初大聖堂で見かけたのがカノンだった事も、後から整理すればそう解釈出来るが作中でそれを事細かに解説したりはしない。ちゃんと整合性が取れているので、殊更に強調する必要はないのである。

”ゆめうつし”の上手さ

この作品で何より感心したのはラティアスとラティオスのわざ、「ゆめうつし」の使い方の上手さである。「ゆめうつし」はラティオスが見ている光景をラティアスに転送して、それをラティアスが傍に居る人間に見せるわざである。逆向きでも出来るかどうかは知らない。作中では一貫して「ラティオス→ラティアス」の1方向回線だけで使われた。

「ゆめうつし」は作中に3回登場するが、その振る舞いは常に変わらない。ラティオスが見ている光景をラティアスを介してサトシ達が見るだけの芸である。だが、同じ事を繰り返しているだけなのに、その全てがまるで違うエモーションを掻き立てるよう設計されている。

【ゆめうつしの準備を促すラティオス】

サトシが初めて目の当たりにした「ゆめうつし」は、庭園を訪れたサトシとピカチュウを警戒していたラティオスがやがて打ち解け、歓迎の意を示す為に行ったセレモニーだった。アルトマーレの水路を滑るように泳ぎ、水中を往くポケモン達や水面越しにきらめく陽光をラティアスを介して垣間見る体験は視聴者の目から見てもエキサイティングで、ラティオスがサトシ達を心の底から歓迎している事がはっきりと分かるように機能している。勿論後でまた使う為、事前にこのわざを見せておく必要があったのだが、それがただの手続きに留まらず、ちゃんとこのシーンに必要なエッセンスとして昇華されている所が素晴らしい。

2回目の「ゆめうつし」は、庭園から辛くも脱出してきたラティアスがサトシに現在の状況を伝える際に使われた。ラティアス、ラティオスは人間の言葉を話せず(ポケモンは普通そうである)テレパシーも使えないので、主人公の知りえない事をポケモンによって伝達させるのは毎回大変なのだが、この「ゆめうつし」のおかげで”ボンゴレとカノンが悪者に捕まっており、「こころのしずく」も奪取されている”事実をサトシに伝えられたのである。

この功績はとても大きい。ポケモンは喋らずに済むならそれに越した事はないのである。しかし込み入った事情や主人公が居ない所で起きた出来事を伝達しなければならない事は往々にしてあるので、劇場版のポケモンは高確率で喋らざるを得ない。場合によっては学者めいたキャラクターが代わりに色々説明してくれるケースもあるのだが、この場にはサトシ達とラティアスしか居ないのだ。そして(どちらが先に決定していたのかは分からないが)ラストシーンを成立させる為にはラティアスは”喋るポケモン”であってはいけない

「ゆめうつし」はラティアスに人間の言葉を与える事無くこのシーンを乗り切らせる為に考え出された物だと想像しているのだが、それ位このシーンにとって必要不可欠なキーであり、ポケモンの動物性を犯さずに状況を瞬時に進行させたこの手法は「ポケモンレンジャーと蒼海の王子 マナフィ」や「ビクティニと黒き英雄 ゼクロム(同様にレシラム)」においても形を変えて使われる事になる。

そして3回目。劇場版にしては珍しく”本当に死んでしまった”ラティオスが、最期にサトシ達に自分の見ている光景を送るこの3回目は、「ここでそれ!」と声を上げる程上手く、また視聴者の悲しみを中和するために練られた最善のシークエンスである。3回目の「ゆめうつし」は、ストーリーを進行させる為にどうしても必要な物では無かった。海を捜索していたサトシ達がラティアスと、ついでに空から降ってくるなりなんなりした”新しい「こころのしずく」”を回収すれば話は収まるのだがここで敢えて「ゆめうつし」。

ラティオスが見ている光景。正確に言えばラティオスの魂が見ている光景は海を離れ大地を離れ、この星の全周を見渡せる程に遠い所に向かい、彼が本当に死んでしまった事、それでもまだサトシ達に別れのコンタクトを送ってくれる程、この一連の結果に対して後悔していないことを、ただの一言も使わずにスクリーンに描き出した。これが無ければ視聴者の怒りは収まらず、この後サトシとピカチュウがザンナーとリオンを惨殺するシーンを入れないと収拾がつかなくなっていたのではないだろうか。

【左から1回目・2回目・3回目のゆめうつし。全て違う目的で使われている。】

機能は1mmも変えずに最初は歓迎の意を、2度目は危機を、そして3度目に感謝と別れを伝えた「ゆめうつし」。こんなにも一貫性を持ち、なのに現れる度に違うエモーションを引き出したポケモンのわざは、少なくとも劇場版においてはこれだけである。

ラストシーンについて

【土壇場で色々な物をゲットしたサトシ】

物語の最後、サトシ達が出発の挨拶をしにボンゴレの家を訪ねるがカノンの姿は見当たらない。あきらめて船を出すと橋の上から手を振るカノンの姿が。桟橋に船を泊め、駆けてきたカノンと向かい合うサトシ。カノンは何も言わず丸めたスケッチを手渡し、そのままサトシの口元にキスをして、やはり何も言わずに去って行く。渡されたスケッチにはサトシとピカチュウが楽しそうに寄り添う絵が描かれていた。と言うのがこの映画のラストシークエンスである。

このシーンのカノンが終始無言だった事、普段被っている(そしてラティアスの人間形との違いである)帽子を被っていない事から、この少女が”ラティアスのふりをしたカノン”なのか、”カノンに化けたラティアス”なのかについては視聴者の想像に委ねられる事になった。どちらを採るのも自由だし、どちらにも決めないのも素晴らしい受け止め方である。ただ、無粋と承知しつつここを検証しておきたいと思ったのには理由がある。ネットで検索すると”「最後にキスをしたのはラティアスである」と公式に書かれています”という文章に悉くぶつかるのだ。しかしその情報は、実は怪しい。

”公式がそう言った”という文章が参照しているのはだいたいwikipedia:劇場版ポケットモンスター 水の都の護神 ラティアスとラティオス:作品概要にある記述である。現在(2011年09月10日)の文章を引用すると

ポケモンが人間に変身するのはこの作品が初であり、アップでのキスシーンもこの作品が初である。このシーンに関しては、カノンに変身しているラティアスがしたのか本物のカノンがしたのかが話題になった。これについては同作品を公式に解説した書籍「劇場版ポケットモンスター―水の都の護神ラティアスとラティオス ピカピカ星空キャンプ (This is animation)」(ISBN 4091015662)において、ラティアスがしたと明記されている。

となっている。これ本当だろうか、と思って取り寄せました。「劇場版ポケットモンスター―水の都の護神ラティアスとラティオス ピカピカ星空キャンプ (This is animation)」。

しかし中身は劇中の画像と書き起こされた筋書きによる絵本のようなもので、製作者の裏話の様なものは一切なく、当該箇所のテキストはここだけ一貫して「少女」となっているのである。最初のページから最後のページ、果ては本のカバーをはがしても、「キスをしたのはラティアス」とは書いていない。

かろうじて「キャラクター紹介(P26)」のカノンの項に二人がどこで入れ替わっているかを見分けるポイントは、帽子をかぶっているかいないか。かぶっている方が本物のカノン。と紹介されているだけである。もしこの記述を以って「あの少女は帽子をかぶっていなかったからラティアスだ」と採っているならいささか根拠に弱いと言わざるを得ない。

【問題の”帽子がかかった”イーゼル】

サトシ達がボンゴレの家に挨拶に寄った時、ボンゴレは家の中に向かってカノンを呼ぶが返事は無く、自室のイーゼルには帽子がかかっており、そこに人間の手が画面右から入ってきてヒラリとスケッチをつまみ上げるカットがある。これが実に効いていて、視聴者に「帽子をかぶっているのがカノン、かぶってないのがラティアス」という法則を思い出させておきながら、もし”本当に”カノンがこの時留守だったのなら(絵を持ち出したのがラティアスなら)、カノンは帽子も被らずにどこに行っていたのだ”という疑問を発生させ、「少女=カノン」説を排斥させないのだ。

そもそも、ステルス機能を持つラティアスが、本物のカノンが居るかも知れないボンゴレの家の中で”カノンに化けてカノンが描いた絵を持ち出す”必要があるかという問題もある。透明になって窓から侵入してそのまま絵をパチってしまえば済む話なのだ。

ただし、作中の関わりから言えばサトシとカノンの関係は浅い。ラティアスのフリをしてまでサトシにキスする程焦がれていたかと言うと、そこは少し怪しい(注5)。頑張って絵を描いたものの当日用事で出払っていたカノンに気を利かせて絵はカノンから、キスは自分からの感謝の気持ちという意味で、ラティアスがまとめてサトシに謝意を伝えた、という線ももちろん、アリである。

私自身は先に挙げた「帽子の所在」と「絵を持ち出す時から人間形である必要性」の点から「カノン説」を採ったが、これはどちらでも構わない。どちらでも成立するように作ってあるからだ。なので、”公式ではラティアスらしい”という情報に自らの解釈を折られた人は、安心して自説でこの作品を締めくくってもらって構わないのだと、そう言いたかったのだ。

終わりに寄せて

初稿時はラストシーンについての言及をせずにまとめたのだが、結局追記して完全ネタバレになってしまった。もしかしたら未見の状態でこの記事を読んだせいで幾ばくかの楽しみが奪われてしまう可能性も考えないではないのだけれど、それでもこの作品を観て貰える可能性が少しでも上がるなら、また、この作品がいかに配慮の行き届いた物であるかを僅かでも伝えられるのならと思い、手を控える事はしなかった。

丁寧に織られた伏線と最小限の台詞、キャラクターの無理のない行動で綴られた「劇場版ポケットモンスター 水の都の護神 ラティアスとラティオス」は、興行成績こそシリーズ最下位らしいがその出来は見事なものなので、どうかその技術と配慮を直に確かめていただければ幸いである。

注1
実はこの章で指摘した「水道の蛇口を止めた」「カスミとタケシにポケモンセンターに戻るよう伝えた」という部分はサトシLOVEの女房が嬉々として語った事である。
注2
カノンは初登場時(大聖堂)とそれに続く庭園のシーンで絵の道具をしまったり携えたりしているが「私、絵を描くのが好きなの」という説明的な台詞は一切ない。
注3
プテラの襲撃を受けた時に「抱えて飛べばいいのに」と思う視聴者が居ないとは限らない。ラティアスがサトシを持ち上げられない、という描写をさり気なく済ませておく事で、水上レースのボートを使うサトシの選択が説得力を持つのである。
注4
オープニングで使われた水上レースのボートは言うに及ばず、ゴンドラの方も”レースでカスミに敗れた選手の計らいで、ゴンドラに乗せて貰った”という準備が済んでいる。
注5
カノンがサトシの事をどう思っていたのかについては、この事件が収束した日からサトシ達が出発するまで数日の余裕があったであろう事から若干のマージンを取る事は出来る。出発の日の朝にいきなりボートで乗り付けて別れの挨拶を済まそうというのも乱暴な話であり、だいたいラティアスには挨拶して行かなくてもいいのかという問題もあるので、おそらく改まった挨拶は前の日の夜に(ラティアスを含め)ちゃんと済ませていたのだろう。

再追記(2013年1月24日)

この記事で引用したwikipedia:劇場版ポケットモンスター 水の都の護神 ラティアスとラティオス:作品概要の記述が変更されました。

記事作成時(2011年9月7日)

ポケモンが人間に変身するのはこの作品が初であり、アップでのキスシーンもこの作品が初である。このシーンに関しては、カノンに変身しているラティアスがしたのか本物のカノンがしたのかが話題になった。これについては同作品を公式に解説した書籍「劇場版ポケットモンスター―水の都の護神ラティアスとラティオス ピカピカ星空キャンプ (This is animation)」(ISBN 4091015662)において、ラティアスがしたと明記されている。

現在(2013年01月24日)

ポケモンが人間に変身するのはこの作品が初であり、アップでのキスシーンもこの作品が初である。このシーンに関して、カノン本人がしたのか、カノンに変身しているラティアスがしたのかが話題になった。本作品の書籍版「劇場版ポケットモンスター―水の都の護神ラティアスとラティオス ピカピカ星空キャンプ (This is animation)」(ISBN 4091015662)では、他の場面ではどちらかであるかが明記されているが、このキスシーンのみ「少女」と表記されている。

wikipediaの編集ログ:ラティアスのラストシーンが訂正された瞬間(2011年12月30日)

wikipediaの編集ログ:2度目の訂正(2012年2月16日)

過去に”公式がそう言ったようだ”という文章で心折られた人にこの訂正が届くかは分かりませんが、今後この作品を観た人が同じような目に合う可能性は少し減るかも知れません。編集して下さった方、どうも有難うございました。