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「Rio -Rainbow Gate!-」が描いた回復性

作成年月日
2011年04月03日 00:00

概論


まぁとにかくびっくりした。全くノーマークだった「Rio -Rainbow Gate!-」の話である。パチスロ由来のアニメという事で「どうせトチ狂ったパチスロメーカーがまた勘違いしてアニメで一儲け出来ると錯覚したのだろう」と思っていたのである。これは決して俺が迂闊だった訳ではなく、世のアニメウォッチャーの大半はこの企画を目にした時に同じ様な感想を抱いた筈である。「あんた、何しに来たの?」と。

ところが「Rio -Rainbow Gate!-」はそういうアニメではなかった。効率よく配置されたキャラクター、ナンセンスなバトル演出に隠された堅実なストーリー、画面を広く取ったレイアウト、逃げない作画と、生粋のアニメコンテンツでもあまりお目にかかれない程の「本格派」だったのである。何でもアリの世界観の裏側には「やってはいけない事・やらなくてはいけない事」が厳密に設定され、全13話を通してそれはほぼ完全にコントロールされた(注1)。この制作体制を準備した事自体、驚嘆に値する。

しかし残念ながら(と言うかそれは最初からそう設計されているからなのだが)アニメファンの間ではそういう誠実な部分がイカレたバトルの影に隠れてあまり評価されないまま終わってしまいそうなので、ここでざっと駆け足ではあるけれど、この作品がそのモチーフに反してどれだけ「運頼みの要素を排除した」作品だったのかをまとめてみようと思う。

各論


フォームを崩さず打てる球を打てる所に打つ〜企画段階での顧客・売り上げ設定〜

【パチスロ出身の社会人ヒロイン:リオ】

「Rio -Rainbow Gate!-」のキャラクターデザインは昨今のアニメシーンから見れば相当ストイックである。アホ毛が飛び出したり華奢な手足にゴスロリチックな衣装を纏ったりと言った意匠は施されておらず、プロポーションは一応「ナイスバディ」とカテゴライズされる物だがそれは一般的なレベルでの話であり、ブラウスやセーターに不思議な乳袋が装備された爆乳キャラが闊歩するアニメ界隈においてはいささかアピールに難を抱えていると言っていい。性格的にも未成熟な中高生(場合によっては小学生)や頭のクロック数が落とされた母性全開の年上キャラが利権を獲得した”萌え”業界に勝負をかけるには余りに安定しており、そもそもヒロインがバリバリの社会人という時点で大ハンデである。元が”萌えスロ”と言う割には萌えから遠い。

このアニメで一体どの辺が食いつくと言うのだろう。萌えアニメファンは見向きもしないだろうしアニメを見ない一般人を相手にするには単発劇場用オリジナルアニメ等に良くある”高尚な感じ”が見当たらない。パチスロフリークが用が有るのは実機の解析映像だけだろうし、ほんと勝算どころか単に何も考えずに金があったからアニメ化してみただけなんじゃないのと訝しんだ程である。

一体この企画の狙いはどこなのだ、という疑問の答は公式サイトの原尾宏次プロデューサーインタビューを読む事で氷解した。「Rio」というコンテンツをとても大切に育ててきた事、アニメ化する以前に、既にその世界観・キャラクター設定は固まっていた事がこのインタビューの中で繰り返し触れられている。

――その『Rio Raibow Gate!』ですが、この作品に登場する世界設定は、今回アニメ化されるにあたって作られたものなのでしょうか?

原尾 いえ、それは実はもうかなり前から意識してやっていたんです。2003、2005、2007、2009年とリオの登場する機種が出ているのですけれど、その中を繋ぐような設定を実機の外側で積み重ねてきました。「SBJ」が出た翌年の2004年に「ネットブラック」と「テクモレッド」という二種類のリオが登場するカレンダーを販売したのですが、ここですでにハワードのホテルが描かれ、リオの母親であるリサが登場しています。でも、リサが実機の演出に登場するのは2007年の「リオパラダイス」からなんですね。リサの友人で妹分だった、まだ10代のローザ(なんとツインテール!)も登場していますよ。

――それだけ人気があるシリーズだったということは、前々からアニメ化のお話も多くあったのでは?

原尾 おっしゃるとおりです。しかし、私どもの方でアニメ業界がよくわからないということもあって、下手な形でお任せしてリオが変になってもいやだな、と思ってずっとお断りしてきました。

――では今回アニメ化に踏み切ったのはなぜ?

原尾 大きかったのは、コーエーとテクモの経営統合です。コーエーには「金色のコルダ」や「遙かなる時空の中で」などのネオロマンスシリーズで培われたアニメーション制作のノウハウがあって、さらにドラマCDやイベントなども大きく展開していたんですね。そこにちょうどまたアニメ化企画のお話もいただけましたので、「これは好機」と踏み出すことになったんです。リオをアニメ化するのであれば、アニメとしてはいいものであっても、もとのファン層を置き去りにしてしまうタイプの作品にはしたくなかったんです。コーエーテクモが責任をもって「これはリオです」と言える作品にしたかった。それは100パーセント達成できたと思います。

目指したのは”売れるアニメ”の制作ではなく、”「Rio」というコンテンツが忠実に再現されたアニメ”だったのである。ここを取り違えてはいけない。何の科学的説明もなくコスチュームを蒸着する主人公も、いきなり登場する大掛かりなアミューズメント施設も、ロールルーラーと呼ばれる能力が生み出す摩訶不思議なイリュージョンワールドも全てパチスロで確変に入った時の再現(という説明が正しいのかどうかパチスロやらないので良く分からないが)と考えれば海より深く納得である。

人に拠っては違う場合もあるが基本的にパチスロは娯楽である。楽しくなくてはいけないし、難しい事を考えるようではいけない。制限を設けてしみったれた雰囲気になるようでは「Rio」ではない。これはパチスロに出てくるキャラクターを登場させるアニメではなく、”パチスロという遊戯”自体をアニメ化する事を念頭に置いて作られたものだったのである。

アニメ作品単品で収益を上げなくては会社が立ち行かなくなってしまうとか、新規パチスロユーザーを開拓しなくてはならないとかそういう下世話な制約を受けない「Rio -Rainbow Gate!-」は自身を生み出した「Rio」というコンテンツの方だけを向いている。結果アニメファンからも一般人からも目をかけられ難い微妙なフェティッシュを纏っての登場となったのだが、元のコンテンツに泥をかけてアニメファンの間でバカ売れするような事も、一般層を取り込む為に妙に大人びた話にする事もこのプロジェクトにおいては「やってはいけない」ディレクションだったのである。

しかしこれは決して「儲からなくても構わないから趣味で適当に作った」という意味ではない。実際に上がって来たフィルムは趣味とは真逆、「何もそこまで」と言いたくなる程の”プロの仕事”に彩られた誠実な物だった。次章では「Rio -Rainbow Gate!-」が「Rio」である為にどれだけのリソースを注ぎ込まれ、かつコントロールされた作品だったのかを具体的に提示しようと思う。

作画とカット割り〜膨大なモブシーン・ごまかしの効かないレイアウト〜

【モブシーン前提の過酷な舞台】

「Rio -Rainbow Gate!-」のレイアウトに特徴的なのはそのカメラの角度である。基本は”地面にカメラを置けるポジション”からのレイアウトを遵守し、レンズは大体標準から望遠。キャラクターの芝居はバストアップより少し引いた大きさで捉えられ、上や下から撮って地面や天井で視界を遮る事もしない。これは所謂”劇場用”のレイアウトであり、テレビシリーズでこんな事を続けていると普通死ぬ。しかも場所がカジノなので客の存在は前提である。見通しの良い場所でアイレベルを画面内に設定しようものなら描いても描いてもキリが無い無限地獄にアニメーターか背景美術スタッフのどちらかが叩き込まれる事になる。

面倒なので画像を用意したりはしないが今放映されているアニメの1話分を全カットキャプチャーした画像を並べてみれば、本作が他の作品に較べてどれだけ密度の濃いレイアウトで構成されているかが判明するだろう。台詞の度にキャラのアップを切り替えたりせず、長回しで複数キャラを同一画面内に破綻なく配置して芝居をさせるカット割りは、キャプチャーした静止画を順に眺めるだけでもストーリーが分かる位に見る側には親切だが、描く方にとっては手間が指数的に増えていく選択である。

しかし「Rio -Rainbow Gate!-」は、この厳しいディレクションに真正面から対峙した。勿論お金があったのである。青色吐息の予算ではとてもこんな絵を毎週描くなんて出来ない。世のアニメの大半は「描きたいけど予算や日程等の事情で描けないレイアウトを選択肢から泣く泣く除外した結果出来上がったフィルム」で溢れている。だが「Rio -Rainbow Gate!-」は漫然と金をつぎ込んで作られただけの成金趣味の作品ではない。その事は第1話の絵コンテの確かさに既に表れている。

1話冒頭、ハワードリゾートと言う架空の歓楽都市をリアリティを以って描く為に、絵コンテはミントという少女を水先案内人にその足元を紹介して行く。大きな階段の踊り場にミントを小さく配置し、その向こう側、眼下に広がる都市を同時に入れ込んでおく用意周到さからして場当たり的な絵コンテには真似出来ない芸当であるが、その後も急な斜面を行く路面電車、ジェットコースターにプールにマジックショー、アトラクションと、落ち着いたレイアウトで情景を広く切り取りつつ、画面の動線を切り替えて見せていくコンテが素晴らしい。アニメを作るなら100回は繰り返し観て欲しいシークエンスである。

カメラのフレームやオブジェクトの移動を意識的に操作し、縦(上下・前後)の動きと横(左右)の動きをリズミカルに配置する事で、観る者が退屈しないよう配慮されている。階段から海までは縦、ミントが歩く所は横、ジェットコースターで縦、プールで静止、電車で横、マジックショーの建物をカメラの移動で縦に切りながら右手からフレームインしてくるミントの横の動きを重ね、その交差した動きはそのままショーのプログラムである上下左右に移動するブロックの動きへとスムースに繋がる。タンカーのアトラクションで頻繁に縦横を切り返した後、捌けるタンカーの動線にミントの歩く動きを重ねて最後は縦の切り返しでミントとイル・エルとの邂逅を描く。

途中でミントの興味が”勝利の女神”と呼ばれる人物に移ってからはそのカッティングはさらに冴え、豊富な情報量を画面に捉えながらテンポ良く右へ左へ視聴者の視線を誘導し、ヒロインであるリオに辿り着くまでの長いシークエンスを飽きさせる事無く魅せる。ここまでずっと顔を映されなかったヒロインが、ミントと出会う段になってやっとその顔を視聴者の前にお披露目するカットまで約7分。下手な絵コンテでは2分ともたないだろう。

ミントがリオの飼いフェレット:チップを追って”勝利の女神”を一目見ようと奮闘するシーン。カジノまでの豪奢な内装を存分に映しながら奥へ右へ左へ下へと細かくカットを切り替えて、ミントの好奇心旺盛な様とホテルのスケール感を描いている。6枚目の画像、吹き抜けの通路を駆けて行くミントの遙か下方に小さく人物を入れる配慮が肝で、この人物のおかげで高低差と建物の大きさが一目で分かるよう設計されている。この人物を描くか描かないかは僅かばかりの労力の差しか生まないが、それによって得られる情報量には雲泥の差がある。

レイアウトに留まらず”どういうカットを挿し込むか”という演出も非常に老練で、例えば2話でエルビスが「ゲート」と呼ばれるカードを持ってハワードリゾートに乗り込んでくる場面。車のボンネットに飾られたゲートを見せる事でエルビスがリオと同じ「ゲートホルダー」である事を語り、カジノに着いたシーンではそのボンネットからゲートが消えている描写の後にちゃんとエルビスの手元にゲートが携えられているカットを入れる事で「運転中にゲートがどこかに落っこちた」という誤解を防いでいる。

実写に置き換えても齟齬が発生しない位にオーソドックスな撮影ポジションが生み出す落ち着いた画面構成と、頻繁に登場するモブシーンを描き切る体力、アニメずれしていない視聴者も視野に入れた丁寧なカット割り。アニメーションにおける”意図した物を取りこぼしなく高いレベルで提供する”という主題に対して「Rio -Rainbow Gate!-」は平均を遙かに超えた点数を叩き出している(注2)のである。

脚本とキャラクター配置〜作品を貫く回復性〜

ストーリーにおいても「Rio -Rainbow Gate!-」は渋い仕事を見せてくれた。本作はキャラクターの運用が非常に上手く、全13話という短い話数の割りに多いサブキャラクター達がそれぞれに出番を与えられ、随所で重要な役を持ち回りで演じる。そのリユースフルなキャラ運用が完璧に機能したのが9話「ジョーカー」で、リナに敗北を喫したリオを元気付ける為に各キャラクターが自律性を以ってストーリーに絡んでくるこの回は、目先の役割を果たしたら後は空気と化してしまうようなキャラクター作りをしている作品では発生しないエピソードである。世の中にはヒロインでありながら「あんた邪魔」と言われる作品も多いのだ。

出番が終わったと思われた人物が何度でも立場や役割を替えて見せ場を手にするこのキャラクター運用は、ただの技術でなく「Rio -Rainbow Gate!-」という作品が描くテーマを表現する上でとても重要な働きを担う。この物語は徹底して”回復性”を描いているからだ。

【自分の半生を全否定されるヒロイン】

一度の敗北で家族の絆もゲートも職場も失ったリオが過去の過ちを認め、初めて「自らの為に戦う」決意を固める第10話。ジョーカーのロールルーラーによる支配力で引き分けを強制され続け、その後連敗を強いられた勝負が、実は最初の負け以降「リオが勝負を決定し続けていた」と明かされる瞬間の高揚感は、失われたリオのロールルーラーが回復した事を讃える素晴らしいシーンだが、それよりも偉いのはその手前でリオがリナに対して手心を加えた行為をリオ自身によって「過ちだった」と認めさせている事にある。

ストーリー的にはカルティアの姦計に嵌まって負けを喫してしまった被害者として、リオを描く事も出来たのだがそうは持って行かず、この喪失の原因をリオ自身に負わせたのは素晴らしい判断だった。そうしなければこの後に描かれるゲートバトルが”奪還の物語”に堕してしまい、”回復性の物語”からは程遠くなってしまうからだ。リオ自身をまず否定し、それを認めさせた上で尚今の状況に対しても否定させるからこそ、世界が裏返り、さらにもう一度裏返って表に帰る。「リバース」と名付けられたこの回の要件を満たせるのである。

同様に第12話「スペキュレーション」において、怪しい情報を吹き込まれ復讐だけを生きる糧にしてきたリナが「過ちを認めようとしている」度量を別荘のドアの向こうにキャラを置くだけで表現し、愚かな復讐者が破滅に陥るような話にならないよう細心の注意を払っている。

負けても、間違えても、― 失った物は、取り戻せる。 ―

それは体の良い絵空事だが本作はそう語る資格がある。メイン・サブの区別なく登場人物全てにやり直しの機会を与え続け、彼らを一貫して「取り返しのつかない破滅」から遠い所に置き続けた「Rio -Rainbow Gate!-」に限っては、そう言う資格があるのである。

「負けてもまだ終わりではない」と言うのはパチスロメーカーとしてはお客に対して一番熱心に伝えたい事だと思われるが、そういうヒネた見方をしても尚、多くの登場人物が途中で消える事無く見せ場を与えられ、皆が揃ってゴールへと辿り着いた破格のハッピーエンドは何度観ても気持ちの良いものである。

まとめ


「Rio」である事に最大限注意を払い、その為に必要となる人員と予算を揃え、全編に渡って「楽しく、しかし楽な方に逃げず、目指した物語から一度も足を踏み外さず」ハッピーエンドへと辿り着いたこの作品は、パチスロの再現時に表出する突飛な仕掛けと制限なしの機能により”いい加減に作られたように”映るケースも多かったようだが、そのバックグラウンドでコントロールされた物の多さはその辺のアニメを遙かに上回る。

アニメ事業のみで採算を取らなくても良いという恵まれた条件下ではあったものの、そこで貪欲に自身のコンテンツに向き合い、きっちりと狙った通りの作品を仕上げたスタッフとプロデューサーの手腕が正しく評価される事を切に願う次第である。

注1
「ほぼ」と書いたのには理由があり、実は本作は11話において一度完全にコントロールを失っている。作画面でも脚本面でも見所がなく、この終盤でいきなり登場した中国少女は全く物語に組み込まれることなくその出番を終えた。回収に成功したのは”ミントがいつも持ち歩いているぬいぐるみは、そう言えば中国製だった”という事くらいである。
注2
作画単体の力量でも「Rio -Rainbow Gate!-」には目を瞠るカットが多々存在し、特に遠い距離での細かい作画が冴える第5話や前後のパースペクティブを気持ちよく描いた第12話などは必見である。