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「マイマイ新子と千年の魔法」直訴騒動に関する疑問

作成年月日
2009年12月11日 16:42

2009年12月4日にtwitter上である書き込みが為された。片渕須直氏というアニメーション監督のアカウントで自身が監督した「マイマイ新子と千年の魔法」の公開期間が打ち切られそうだという書き込みである。

マイマイ新子の続映がピンチです! 可能なお客様は、できるだけこの週末にご覧いただけるとありがたいです。

この書き込みは有名人がリークした内部情報という側面もあって瞬く間にReTweet(転載)された。さらにそこから続映を希望する署名活動が発足し、あちこちのサイトや新聞などがこの状況を取り上げる事となった。

最初に断っておくがこの映画の出来に関しては未見なのでなんとも言えない。なのでそこについては批判のしようもなく、いっそネット上の評判をそのまま採用して”素晴らしい映画”という前提で語ってもいい。実際氏の作品に対する真摯さは「BLACK LAGOON」で十分納得済みである。観れば感動する可能性は随分高いが、今問題にしたいのは”作品が続映に値するかどうか”ではなく、”そもそも勝算があったのか”という事と”誰が誰に頭を下げるべきなのか”という話である。

公式サイトの絵を見て貰えれば分かるが、この作品はキャラクターデザインや画面レイアウトなど随分汎用性の高い絵柄で作られている。アニメファンだけではなく一般の人の鑑賞にも耐えられる造形である。言い方は悪いかも知れないがスタジオジブリや細田守の劇場作品「時をかける少女」「サマーウォーズ」らと同じフィールドでの勝負を要求される造形だ(実際のターゲットがどこら辺だったのかは関係ないが、やはり一般層を狙っていたらしい)。

しかし、幾ら片淵須直氏が敏腕のアニメーション監督だと言ってもそれは相当アニメに詳しい人間にとってのみ知り得る事実である。宮崎駿は知っていて、もしかして細田守も知っているかも知れないが、片淵須直というのは知らないなぁ、と言う人の方が普通だ。氏のネームバリューはアニメを恒常的に観る層には訴求力があるが、そうでない層には無力なのである。原作の知名度も「時をかける少女」に較べれば遙かに劣る。元々十分な知名度や話題性を武器に出来ない厳しい戦いが予想されていた筈なのだ。

現在のアニメーションファンが通常目にするキャラクターデザインに較べればマイマイ新子のキャラクターデザインは地味で、所謂”萌え絵”からは程遠く、そういう層からの支持は最初から期待していないのだろう。勝負する相手は一般視聴者層と、こだわりのあるアニメファンだった筈である。ところが、この作品の広報活動は恐ろしく控えめで、大概のアニメファンからしても”いつの間にか公開されていた”という顛末だったのである。「今、こういう作品を作っていて、冬に公開しますからご期待下さいね」というアピールは公式サイト上で密やかに語られるだけで、テレビでCMをバンバン流すわけでもなく、ラッピングバスも原作の舞台である山口県で一日だけ走った事があるらしい、という位だ。ちなみ同時期の劇場公開アニメとしては

の2作品があるが、どちらもテレビシリーズで一定数のファンを獲得した上での劇場公開である。どうしたってそちらの方が分がいいのは当然だ。だからこそ「マイマイ新子」の売り方は考えなければならなかった。萌え絵に頼るでもなく、アニメファンのパイの奪い合いも苛烈なこの時期に、知名度を後ろ盾に出来ない状態で一般視聴者層までもターゲットにしなくてはならなかったのに、それに見合うだけの宣伝を打たなかったのである。

勿論宣伝にだってお金がかかる。テレビにバンバンCMを打つなんて余程予算が潤沢に供給されるようなプロジェクトでなければ夢のまた夢だ。宣伝したかったけど出来なかったというのが本音かも知れない。けれどそれならその時点でもうこの勝負は”勝算のない勝負”なのだ。そこは金が無くても何か手を打たなければどうにもならなかった筈である。このまま何もしなくてもいける、と踏んでいたのであればこの結果を甘んじて受け入れるべきだし、それでも何とかしたいと願うのであればお金を出してくれる人に頭を下げて宣伝費を工面して派手にCMでも打てば良い。どうして無策のまま勝負に出て旗色が悪くなってから慌てるのか理解出来ない。

先日「なぜ、猫はあなたを見ると仰向けに転がるのか?」という本を買った。元は「キャット・ウォッチング 〜ネコ好きのための動物行動学」と名付けられていた本だ。この厳ついタイトルを”動物行動学”という単語に興味の無い読者にもアピール出来るようにタイトルを付け直し、しかも世間でも知名度の高い岩合光昭氏の撮った猫の写真を表紙と作中に配するというディレクションである。題名を変えて著名な写真家の(実際に良い写真なのだが)猫の写真を付加することで本の購買層をぐるんと変える事に成功した分り易い例だと言えるだろう。

また、別のアプローチでは少し古い話になって恐縮だが、「君が望む永遠」というPCゲームでは体験版に第一章を丸ごと入れて、ヒロインの一人が交通事故に合ってオープニングが流れた所で体験版が終わるという「うわ、この先どうなるんだ」と知りたがらずには居られないような戦略で話題を攫った。やりようは色々ある筈で、実際それで結果を出しているプロジェクトはあるのだ。

今回の件で責任を取るべきなのは監督では無くアドバタイズメントを担当した者である。そこの人間が「無策で申し訳ありませんでした。でも映画は素晴らしいのでどうか足をお運びください」と言うのなら分かるのだが、そうではない。これは制作側の一個人の願いに賛同した他の多くの支援者が自発的に始めた活動であって、正規の広告展開ではなく、この一連の活動には一切の金銭の授受が無いが、それでも非営利活動の下であちこちに情報が波及し、事態が好転している局面も報告されている。作品を愛する人の願いが自分たちが行動することで叶うかも知れないという状況だが、これは見方を変えると最小限のコストで宣伝活動をやり過ごしたツケを、視聴者が自発的に肩代わりしてくれているという状況だ。

出来は良いのに予算が無くて日の目を見なかった、というのは悲しい話だが、そこを何とかする仕事を生業としている人からすれば、この光景は薄ら寒い物に映るのではないか。宣伝を担当する部署が制約を乗り越えられず、必要な効果を上げる事が出来なかったとしても、作品の出来が良くて監督が窮状をネットで呟けばリカバリー出来てしまうのだとしたら、「宣伝」で知恵をしぼり頭を下げて結果を出している人は本質的に要らない、と言う事になってしまう。

”良い物はちゃんと売れる”。それは素晴らしい事である。”ファンの声がネットを通して届く”。いい話である。ならば広報は?広告は?その部署が結果を出さなくてもいいのであれば、彼らはスタッフではないの?

作品を企画し、スポンサーを募り、予算を引き出し、作り、それを周知させる所まで含めて”作品”である。”こんな素晴らしい作品が上映を打ち切られるなんて”という文言を山ほど見たが”周知”の部分を”作品”と切り離すような言い方はそれを生業にしている人を侮辱してるのと同じだ。そこで目標を達成出来なかった「マイマイ新子」は勿論その責めを受けるべきなのだ。少なくとも劇場公開においてはそこまで含めて”作品”だった筈である。

「マイマイ新子」は無事ソフト化され、この作品に携わった人、この運動に参加した人、そして(やがて自分もそこに含まれるのかも知れないが)この作品を愛する人にとっては良い結末を迎える事になったけれど、正直こんな騒動は二度と見たく無い。危ない橋を渡るリスクを「作品の出来」を免罪符に押し通すようなやり方は御免なのだ。そんなセンチメンタルは、そこで結果を出している人達からしたらノイズにしかならないのだから。