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何故エスカレーターで歩くべきではないのか

作成年月日
2009年月11日24 13:58

エスカレーターを巡る二大勢力の攻防

”エスカレーターに乗る時は左側に寄って、急いでいる人の為に右側は空けておきましょう”(注1)という風説がいつ頃から世間に根付いていたのかは知らないが、そういうロジックは確かにあったし、今も根強く世間に浸透している。かく言う自分も昔は律儀に右側を空けてエスカレーターに乗っていた。しかしその風説は最早過去の物となりつつある。というか過去の物にしなければいけないのではないか、とこの頃強く思う。

この”右側空け”派と”空けずに詰める”派が混在する今は、エスカレーターを運用する上で一番厄介な時代だと言えるかも知れない。駅やデパートのエスカレーター上で、両派による”何やってんだこいつ”という無言の攻防が繰り広げられている。”右側空け”派の信条は高速道路の追い越し車線をモデルにした”住み分け理論”であり、片や”空けずに詰める”派は”安全第一論”と”輸送効率論”に更に分かれている。

結論から言えばこの問題は”輸送効率論”で簡単に片が付く話なのだが、ここで障害となっているのが”右側空け”派はこの”輸送効率論”を知らない、聞いた事が無い、考えた事もない、という部分である。結果「エスカレーターで並んで突っ立っている奴なんなの」とか「左側の行列に並んでいる連中はさもしい」だのといった嘲笑が大手を振ってまかり通ってしまうという現状が今も続いている。エスカレーターは今本当に乗りにくい乗り物になっているのだ。

今回はこの不毛な争いに終止符を打つ一助となるよう、なるべく分かりやすくこの問題を検証してみたいと思う。

二車線が一車線に

いきなり核心から話してしまうが、”右側をあけておく”というのはつまり来るか来ないか分からない人間の為に本来の輸送性能を半分しか使わないという事である。20ステップのエスカレーターならば前後両側を詰めて乗れば単位時間(一番下のステップが一番上まで行く時間)に運べる人間の数は20×2の40人だが、右側を空けて乗ると同じ時間で運べる人間は20人である。

その間右側を急いでいる人が歩いて登って行くのだから実際の輸送人員はもっと増えるじゃないか、という論は意味がない。何故なら”右側空け”というのは右側を登る(注2)人がいつ来るか分からないが故に、常に右側を空けておかなければならず、実際に右側を登る人が現れるかどうかは斟酌されないのである。右側を登る人が現れたら、右側に立っている人が左側の列に入り込むという事も出来ない。右側を登る人間を許容するという事は、そういう人間が実際に現れようが現れまいが、最初から一貫して右側を使用しないという前提を要求される事である。それは即ち「二車線ある道路を一車線しか使ってはいけない」と言っているのと同じなのである。

輸送速度の錯覚

「なるほど確かに右側を使う人間がいるかいないか分からない状況で右側を空けておくのは不毛だ。しかし朝の駅のホームなんかは人が溢れていて間違いなく右側を使う人達が大勢いる。そういう状況では急がない人は左側、急いでいる人は右側でいいのではないかな?右側の輸送効率は歩いて登る分だけ左側より良い筈だ。一単位距離(一番下のステップから一番上までの距離)の移動に左側は20秒掛かるところを右側は10秒で済ませられるとしたら右側の輸送効率は2倍だ。全体の効率を損なっているとは言えないのでは?」と考える人もいるかも知れないが、ここには落とし穴がある。速度が2倍なら効率も2倍だと言うのはステップの間隔を空けずに登れるのであればという条件が満たされればの話である。

実際にやってみると分かるが前後の間隔を空けずに全員が鈴なりになってステップを歩く事は出来ない。全員が完全に動作をシンクロする事が出来れば可能かも知れないが、前の人が上がって空いた場所に自分の足を下ろす為にどうしても1〜2ステップの間隔(つまり人を載せられない空間)が必要となる。そもそもそんな事が出来る位なら交通渋滞なんていうのは起こらない。全車がテールトゥノーズの状態で一斉に進んで一斉に止まれるなら誰も苦労しないし、それを実現する為に欧州その他で自動車の挙動を無線とコンピュータでリンクさせてスムースに移動させる試みが為されているのである。

例え速度が2倍でも、使えるステップ数が半分(1ステップおき)なら効率は等倍だし、もし所々で2ステップ空いていたら効率は確実に等倍を下回る。普通に階段を使って歩く速度とエスカレーターで立ったまま上がっていく速度は大体同じなので、普通の速度でエスカレーターを”登る”速度は立ったままの2倍。許容される前の人との間隔は1ステップまで。急いで大股で上がっていく場合は速度は2倍を上回ると予想されるが、その場合必要な前の人との間隔もそれに応じて開いていく。1ステップの間隔で大股で上がっていくのは難しい。結局全体の輸送効率からすれば右側を歩いて登る人間に解放しても等倍かそれ以下程度に落ち着いてしまうのだ。

結論

「エスカレーターを歩いて登ると早い」というのは、実際に歩いている個人にだけ適用される事であり、その影では右側を空ける為に移動する事すら出来ずに長い行列で待たされる人がいっぱいいるのである。右側を歩いて登ってきて途中で行く手を遮られて舌打ちしたり無理矢理肩を入れて登ろうとする人は全体の効率を無視して自分さえ良ければ良いと思っている人間であり、エスカレーターの手前で行列が出来ているにも係らず、前のステップの右側に詰めずにその一つ手前のステップの左側に立つ人間は、臆病な偽善者である。

エスカレーターがガラガラなら無理に前の人に密着する必要はない。適度に距離を空けて好きな側に立てば良い。けれども人が乗り口で詰まっているような状況では

前の人と間隔を空けず、右が空いていれば右へ、右が埋まっていれば手前の段の左側へときっちり詰めて乗るのが正しい作法である。

エスカレーターを動く階段だと思うからこういう見当違いな事が起きるのである。乗り物だと思えば良い。皆が黙って立っているから通勤電車にあれだけの人が乗れるのだ。もし車内で皆がランニングを始めたらあれだけの人数は乗せられない。その為に急いでいるにも係らず次の電車を待つような羽目になったらこう思うだろう。「おまえらが黙って立っておけば俺もこの電車に乗れるんだからちょっとじっとしてろ」と。

それと同じ状況なのである。

注1
大阪では左側を空けるという話を聞いた事がある。それが本当なら大阪の人は左右を入れ替えて読んで頂きたい。
注2
話を分かりやすくする為にエスカレーターの進行方向を”上り”に統一して話しているが、”下り”の場合でも全く同じである。