最初の障壁
インターネットが様々な転換点を迎える度に「あぁ、今度はこんな物が流行っちゃうのか」と否定的な感想を口にして来た。ホームページビルダーで作られたテーブル組みのサイトが跋扈したり、おかしなhtmlを生成するblogが氾濫したり、ネットの中に囲いを作って検索性を分断するmixiが幅を利かせて来たりする度に一応は試して、すぐに「勘弁してくれ」と頭を抱えてしまったのだが、今回の「twitter」に関しては、ちょっと面白くなってきたな、と感じ始めた。
知らない人ももう大分少ないとは思うが、一応簡単に説明すると「twitter」とは「自分しか書き込めない掲示板を与えられ、そこに延々とどうでもいいセンテンスを書き連ねることを要求される」サービスである。普通インターネットにおける掲示板とは誰かの書き込みに対して別の誰かが意見を述べ、更にそれを他の人間が補強したり反論したりして議論を深めたり泥沼に嵌まったりしていく物である。ところがこの「twitter」は”自分しか書き込めない”ので、書きっ放し、投げっ放しで終わる。一回の文字数制限も140字と厳しい為、外堀を埋める暇も無い。「今スパゲティを作り中」とか「ベヨネッタ最高!」とかもう少し頑張ったとしても、気の利いた理屈を一つ説明するのが精一杯という位の分量しか書き込めない。しかもこの掲示板は自分専用なので、他の誰かがそれを見かけてどうこう書き込んでくるという事もない。誰もが途方に暮れる。「これを一体どうしろと言うんだ」
自分の書いた五言絶句を延々眺めて居ても思考の発展は望めないので、ここは一つ他の人の掲示板でも覗いてみようかと思う。検索フォームに任意の単語を入力すれば、その単語を含んだ書き込みがずらずらずらっと画面を埋め尽くす。どれもこれも適当な感想や報告ばかりで資料性の高い文章に行き当たる事は少ない。その内の一人を選んでクリックすれば、その人が”つぶやいた”どうでもいいセンテンスが時系列順に並んでいる。上から下まで眺めてみても大して役に立つ事は書いてない。
「たーすーけーてー」と皆が叫ぶ。俺も叫んだ。エポックメイキングもない日々の戯言を延々発信する事の心理的抵抗も高いし、他人のソレを眺める苦痛も相当の物である。こんなの一体何が楽しいのだ、と早々に匙を投げてしまった。しかし「継続は力なり」と言った昔の人は慧眼である。続けてみなければ分からない事というのは、確かにあるのだ。
無秩序の中から匂い立つもの
twitterで大事な機能の一つである「フォロー」というのは、つまり自分専用の掲示板と他人専用の掲示板を混ぜる事である。Aさんを「フォローする」と、自分の掲示板にAさんの書き込みが流れ込んでくる。自分の書き込みとAさんの書き込みはインターフェイスの表示上は等価であり、一見しただけではこのページが誰の掲示板かは分からない。フォローする相手が5人6人と増えれば、その人達のつぶやきで画面は占拠され、自分の書き込みはあっと言う間に埋没してしまう。しかもそれらの書き込みは互いに何の関連性もないので、この掲示板は益々カオスになってくる。意味が分からない。他人の独り言自体が大概は意味不明なのに、それらが交互に表示されてしまって余計何が何だか分からなくなってしまうのだ。
しかし、フォローする人間の数が更に増えてくるとそのカオスの中に「ある秩序」が醸成されてくる。結構な頻度で自分のアンテナにヒットする単語やエポック、情報がもたらされる様になってくるのである。それは海外でしか販売していないCDのタイトルだったり、昔ライブに通ったアーティストの近況だったり、或いはプライベートブランドの工房が出している脅威の可動箇所数を誇るフィギュアの名前だったりする。twitterで他人のアカウントに接触する為の手段としては先に述べた「検索フォーム」からの検索が一般的であり、その時フォームに入れた単語は大概「自分が興味のある単語」だった筈である。それと同じ単語を知っていて書き込みの中に使った相手は「自分と共通する」趣味や経験を持っている相手である可能性が高い。そのマッチングが例えごく一部だったとしても構わない。兎にも角にも相手は自分と何某かの共通概念を持っている人間なのである。
そしてそういう相手をとにかく沢山フォローしてしまう。この時の心理的、選択的ハードルは極々低くしておかなければならない。良く知らない相手をフォローするのはなんとなく躊躇われてしまうのだが今必要なのは数である。ちょっとでも自分の目を引いた書き込みをした相手なら、例え他の書き込みがチンプンカンプンだったとしてもフォローしてしまって構わない。そうやって自分のアンテナに僅かでもフィットする相手の書き込みを延々自分のページに表示させて行くと、いつの間にかそこには「物凄く効率が悪いが、恐ろしく自分の嗜好に合った情報を提供してくれる事もあるメールマガジン」の様な物が出来上がっているのである。
共感関係の終焉
twitterでカスタマイズしたタイムライン(自分の掲示板)は、知らない物、知っていたけど忘れていた物、知らなかったけど知りたかった物や知る必要のない物などを全く無責任に、けれどある傾向を持って延々とこちらに送りつけてくる。この無責任さといい加減さは筆舌に尽くしがたく「お前が今何を食っているのかという情報が一体誰にとって役に立つんだ」と突っ込みたくなる事もあるかも知れないが、その無責任さが許されるからこそ、意外なものが無防備に流れてくるので文句も言えない。
もし自分が誰かの為に「おすすめのアニメ10作品」や「おすすめのjazz10枚」を選んで発表しなければならなくなったら色々吟味して”とりあえず間違いの無い”物を10個選ぶだろう。それは一般性であり、また汎用性を基準にした選択である。しかしそこには選から漏れた何百というタイトルがあったのである。それらは人によっては一生モノのタイトルを含んでいるかも知れないのに、ただ”一般的でない”というだけで人に紹介される機会を奪われたもの達である。そしてこの「10選」を沢山の人間が作ったとしても、結構な割合で重複するタイトルはあると思うのだ。”一般的でない”というのは”共感を得られそうに無い”という恐れに繋がる。逆に”一般的でないものをあえて紹介したい”という向きもあると思うが、それでもそこには”勝算”のような物が見え隠れしている筈だ。一般的でないプレゼンテーション、一見否定されそうなオピニオンを説得力を持って展開し、最終的には読み手の共感を得られる筈だという勝算である。文章を発信する時に読み手との勝負を端から諦めるような境地にはなかなかなれないのである。その結果、自身の中にある情報を”理解されやすいもの”から”理解されにくいもの”まで順番に並べ、小手調べの時間帯においてはついつい”理解されやすい”あたりから情報を引っ張ってきてしまうのである。
ところがtwitterでは”人に理解してもらう”という前提をシステムが破棄しようとする。誰の理解も得ようとせず、無責任に思いついた事を前後の脈絡無く書き殴るこのやり方は、他人との共感関係を進化の礎にしてきた人類にとっては非常に”手馴れていない”やり方である。(これの真逆を行くのがmixiだと言えば分かりやすい。mixiは人に読んでもらう、共感される事による幸福感を最大限感じられるよう構築されたシステムであり、人間の生理的特徴に合致している)。他人の共感というご褒美を取り除いてしまうことで、twitterはこれまで表出させる機会を奪われていたエポックや情報を引き出す事に成功した。これはもしかしたら人類史始まって以来の大転回なのではないだろうか。
変化し続けるアルゴリズム
情報を表出させる垣根を下げるというやり方も画期的だが、その情報を送ってくるデバイスが人間である、という点もこれまでのマーケティングとは一線を画している。メールクライアントを開けば毎日どこかしらから販促メールが届いているが、その内容が興味を引くようなものである確率は中々低い。理由は様々あるが要約していくと次の2点に集約されていく。
- 向こうの都合で売りたい物をこっちに売ろうとしている
- こちらの都合を量り違えている
向こうの都合で売りたい物がたまたまこちらが望んでいる物である可能性は低いのでそれは仕方がない。こういうのはマーケティングではなくただの広告なのでインターネットの機能を十分に利用したやり方ではない。二点目の”こちらの都合を量り違えている”事の方が遙かに勿体無いケースである。
例えばamazon。今までに買ったもの、チェックした物を覚えていてくれて、同じ商品を買った人間が買った別の物を薦めて来たりと色々よくやっているとは思うのだが、やはりそこには限界がある。amazonのデータベース程度では”タイトル”や”著者”、或いは”シリーズ”でしか同類項を作れないのでこちらの本質的な好みを理解するに至らないのである。さらにこちらが何かを新しく買ったりチェックしたりしない限りデータベースに変化は生じないので、amazonが薦められる物は新商品の追加分以外何も変わらない。
しかしtwitterではこちらが何もしなくても日々もたらされる情報は変化していく。相手はこちらの都合を考えずに気になるCDや気に入った曲名を書いているだけなのだから、当然こちらの好みに合致する確率はamazon以下なのだが、その精度の低さは数でカバー出来る。またフォローしている相手というのは先にも述べたとおり”自分と何らかの共通概念を持っている相手”なので、時々ハッとする程クリティカルな情報をもたらす事もある。更に彼らは”人間”なので、好きなもの、嫌いなものも日々刻々と変化する。もし仮にフォローしている相手の中にことごとく自分と趣味が一致していて、その人が好む物は自分も間違いなく嵌まるような相手が居たとしよう。それは随分と便利なソースになり得るが、事はそれだけに留まらない。相手はこの先少しずつ好みが変わってきて、いつか自分の趣味とは少しずれた所に行ってしまうかも知れないのである。それは便利だったものが不便になるという意味ではなく、”もしかしたら自分が辿ったかも知れない別の結果”を自身の情報源に出来るという意味である。
もし今何か気になる商品があればその名前を検索フォームに打ち込んで見ると良い。そうすればその商品の浸透度に応じた数の書き込みを目にする事が出来るだろう。それらは公平な観点で評価されたものではないし、間違った知識に基づいたものかも知れないが、少なくとも何の打算も介在しない所で発信された率直な感想である。そしてその中で目を惹いたコメントがあれば、その発信者をフォローすれば良い。その人はいつか、あなたが知るはずも無かった興味を惹かれるような商品を買ってその感想をつぶやくかも知れない。
プログラムで処理されたマーケティングよりも振れ幅が広く、しかし乱数に賭けるような無意味なやり方とも違う。twitterでもたらされる情報は自分の好みに適度に寄り添いながら適度に裏切り、しかも様々な方向へ成長、変化して行くのである。
インスピレーションの新しいフェイズ
htmlのハイパーリンクの醍醐味とは”参照”である。リンクが無ければインターネットはただの電子書籍の展示場にしかなれず、それはそれで便利そうだが知りたい事、調べたい事をリンクを辿って文書にアクセス出来る事がこの媒体の独特な部分だった。やがて”参照”だけでは飽き足らずパソコン通信や電子掲示板を介しての”交流”が生まれ、ネットショップやネットモールの出現によりビジネスの新しいインフラとなり、さらにはblogの隆盛により手軽な自己表現の土壌にもなった。インターネットという仕組みは様々な使われ方を許容してきたが、twitterが示した今回の飛躍は”インターネットにおける”という但し書きを取り外しても十分大きい。
何かの創作物からインスピレーションを得る事は遙か昔から行われてきた事だが、その基は「出来不出来は別としてとりあえず形になった物」からだった筈である。一冊の本、一遍の映画、そういう完成品が誰かの心を揺さぶり何らかの刺激を与えてきたからこそ、物を作って発表するという垣根が下がった今でも人はとりあえず”意味の分かる文章”を完成させたり、とりあえず下描きまで済んだ絵をpixivにアップロードしたり、最後まで弾いた動画をニコニコ動画にアップしたりしてきたのである。ギターにシールドを挿す所で終わる動画にはなかなかお目にかかれない。
ところがtwitterではそれが許容される。事を成す前のインスピレーションである”今日はハンバーグでも作ろうかな”と思い立った時点で、それが他人の目に留まってしまうのである。頭がお花畑のアイドルのblogにならそういう文章も見つけられたかも知れないが、市井の一般人からすればそれはなかなか勇気のいる所業だ。そういう責任感に根ざすハードルを飛び越えられなかったよく分からないインスピレーションを、ついに拾い上げるシステムが登場したのである。「そんな物を拾い上げてどうするんだ」と普通思ってしまうが、デバイスの素を取捨選択して、数を揃えていけばそんな物の集合にも計り知れない叡智が宿ってしまうのではないかと、今ちょっとワクワクしているのである。
twitterのコミュニケーション
一応twitterにも他人とコミュニケーションを取る方法は用意されており、誰かの書き込みに返信したり直接メッセージを送る事も出来る。人によってはラジオ放送の様に端からフォロワーに対して話しかけるように書き込むケースもあるし、友人たちの掲示板の様になっているところもある。
けれどもこれまで書いてきた理由により、そういう機能はなるべく使わない事をお勧めする。こちらの存在をアピールし認知されてしまえば、その人は”読む人が居る事”を想定してつぶやきのハードルが上がってしまう可能性がある。”こういう事を書くと人の気分を害してしまうかも”とか、”こんな事は書かなくてもいいか”とかそういう衒いは、twitterの機能を制限してしまう。自分をフォローしている人間の数も、そのフォローしている人間がどんな書き込みをしているのかも明らかなのだが、それでも表面上は”みんなひとりごとをつぶやいているだけ”という体裁を守らなければ、自由なインスピレーションは表出出来ないのだ。
誰かと話をしたければmixiなりコメント機能付きの掲示板でやって、そこでは書くほどの事でもないなと、胸にしまったセンテンスがあったら、それをtwitterに書いてくれ、と心の底から願っているのである。
追記
その後さらにtwitterを続けてみて少し気がついた事があるので、それを補足。
フォローされてたのにある日フォローされなくなっていた(リムーブされていた)という事を気にする人がいる。或いはその逆に相手がフォローしてくれているのにこっちだけリムーブするのは悪いよなぁ、と気にする人とか。もう、そんなの全然問題ない。これは手持ちのmp3ファイルを並べてお気に入りのプレイリストを作るような作業なのだから、2曲目はこれにしようと思ったけど全体のバランスを考えるとこっちの曲の方がいいな、というだけの取捨選択が行われたに過ぎない。
俺などはフォローしておきながら10分後にリムーブする事などしょっちゅうである。つぶやきの内容とは別に”投稿頻度”というのがあってフォローしている相手の数が少ないウチは、ものすごい勢いでpostされるとその人のつぶやきだけで画面が埋まってしまう(=他のつぶやきを見つけるのに随分遡る必要が出てくる)為に、やっぱりフォローするのはやめておこう、と思うケースが良くあるのだ。特にニュース系というかurlをバンバン貼っていくタイプがそうだが、それらのトピックが要らない訳ではないのだ。ただちょっとバランスが崩れるので”今はやっぱりやめておこう”と思っただけなのである。
相互フォローに関しては完全に効率の問題で、俺個人は”自分の脳を刺激するセンテンスを無尽蔵に吐き出す装置”を作りたいが為にtwitterをやっているので、こちらの書き込みを読んで欲しい訳ではない。なのにどうしてつぶやくのかと言うとそれは効率を上げる為である。もしこちらの書き込みが誰かの嗜好に僅かばかりヒットしてフォローされたとする。それは高確率で”その相手の書き込みもこちらにヒットする”可能性がある事を意味する。こっちから共通概念を持つ相手を探すだけではなく、”相手からも探してもらう”方が効率が上がる。その為には、自分の方も日々の中で生まれたどうでもいいセンテンスを衒いもなくつぶやき続けることが重要なのである。
なのでこちらがその相手を見つける前に、相手が名乗り出てくれたのなら願っても無い事だ。こちらは既にそのチャンネルを手に入れたので、その後相手がこちらをフォローするのをやめた所で全く損はしないのである。損はしないどころか少し得した感すらある。「すんませんねぇ、こっちだけ貰うばっかりで」という心境だ。
リプライやダイレクトメッセージはtwitterを”非コミュニケーションツール”として機能させたい自分としてはあまりフィットしない代物なのだが、それでも便利に使える事は多い。ただその局面でも、それが”結果を保証しないもの”だという事は忘れないでいたいし、忘れないで欲しい。たとえ誰かに向けたものだとしてもそれは”ひとりごと”なのである。ひとりごとは返事を要求しない。誰かから@付きでつぶやかれたとしても、それに返事をするのもしないのも完全に自由である。面倒だったら放っておけばよいし、興が乗れば相手が音を上げるまで返信し続けても良い。
twitterでは新参者だけれど、折角いい具合に個人の閾値下のエポックを発掘する機構が育っているのに”mixi”ずらしたどうでもいい作法が幅を利かせてしまうのは勿体無くて我慢出来ないのだ。ホント、そういうのはmixiでやって下さい。同様の理由で有名人に多い”つぶやきを非公開”っていうのも頂けない。友達同士でだべりたいだけならソレこそmixiで十分だろう。それとも人のつぶやきは無尽蔵に見たいけど、自分のは選ばれた相手にしか見せられませんって事かい。もし皆が皆”つぶやきを非公開”にしたらtwitterは簡易mixiにしかならないんだよ?全員が使用したらシステムが破綻するような機能をどうして付けちゃうかな。
涼宮ハルヒ風に言うなら「ただの人間どころか、芸能人にも宇宙人にも興味はありません。欲しいのは”クスッ”と笑える駄洒落や”ほう”と思えるオピニオンや、”マジかっ”と驚嘆出来る情報だけです。以上」という事である。ひとりごとに責任は無いし、ひとりごとがあなたの人間性を全て代弁するわけでもない。どうかつまらない事でつぶやきを躊躇ったり、厄介な事に巻き込まれないで欲しい。即フォロー、即リムーブ、即ブロックでいいのだ。それをしてもされても、気に病む事なんか一つも無い。