写真は今日公園で会った若猫達。母猫を女房が餌付けしていたので、子供たちもすんなりと寄ってくるのだが、この公園には数ヶ月前から”動物に餌をやらないで下さい。糞をしたりゴミを漁ったりして迷惑します。”という張り紙がそこかしこに貼り付けられている。近所の一住人の訴えに応えて市が設置した物で、つまり我々は市の方針に逆らう反社会的な夫婦なのである。
この公園のすぐ傍には野良猫を邸内に招き入れかいがいしく世話をする婦人もいるのでその辺の軋轢が以前からあったのだろう。表立ってはいないが”猫派”と”反猫派”の戦いは熾烈である。公園の砂場に糞などをされて、そこで遊ぶ子供たちが病原菌に感染する事態を市も恐れているのか、いつでもどこでも行政は”反猫派”である。正確に言えば”反野良猫派”か。
片方は寄る辺無い動物に憐憫の情から餌を与え、もう片方は自宅や近所の衛生状態を良好に保つ為にその行為をやめさせようとする。”反野良猫派”は猫を嫌っているが、その対象は”自分のテリトリーに糞尿をする猫”に限定される。遠く離れた場所や隣の家の中で飼われている猫まで嫌いな訳ではない。猫が排泄しない生き物であれば問題は生じないのだろう。地面に糞尿が存在するような有様は先進国に相応しくないのである。
”猫派”の人間は猫が可愛くて可愛くてしょうがなく、腹をすかせて死にそうな野良猫や子猫を放っておけないのだが、彼等には時々餌を与える以上のサポートを行う事が出来ない。何故なら彼等の家には既に猫が何匹か飼われていて、これ以上引き取る事が出来ないのである。世間や行政から”見逃して貰える事を期待して”後ろめたい気持ちで夜中にこっそり餌をやるのだ。自然が有り余っている田舎ならともかく、都市部では猫派は反社会的な存在である。現状は野良猫に厳しく、その存在すら許されなくなるのも時間の問題では無いかとすら思えてくる。(実際は既に許されていないのかもしれないが、”飼い猫を外に出してはいけない”という法律が無いので、外を歩いている猫を手当たり次第に捕まえるわけにはいかないのである。この法律が出来てしまえば、外にいる猫を無条件で保健所送りに出来るだろう。)
しかしここで”猫派”にも”反猫派”にも思い出して貰いたいのは、「元々『ネコ』なんて動物はいなかった」という事である。
冒頭に母猫を女房が餌付けしていたので、子供たちもすんなりと寄ってくる
と書いたが、この文章の後ろには「長い年月をかけて人間社会の中で家畜として重用し、結果人に懐く性格の個体が淘汰圧をくぐりぬけて来たから」という文章が隠れている。ヤマネコを連れて来てもそう簡単に同じ事は出来ない。野良猫は人に懐かないと言われたりもするが、それでも彼らは野生動物に比べれば”異常なほど”人に慣れ易い生き物である。人間との関わりの中でそういう特性が生き残り、広く伝播したからに他ならない。極端な品種改良を経てきた犬に較べて姿形は原種に近いが、イエネコは人間が作り出した動物と言っていいだろう。彼らは生まれた時すでに、人間用に調整されているのである。
ネコは長い間人間の食料と、ネズミが媒介する伝染病の危険から我々を守ってくれた。1960年代にボリビアで発生した未曾有の伝染病感染の原因は、蚊を駆除する為に蒔かれたDDTによってネコが町から消え、ネズミを駆逐する者が居なくなった為だったそうである。この伝染病を封じ込める為に当時アメリカから150匹の猫が”派兵”され、その結果瞬く間に感染は止んだそうだ。町を遍くネコが駆け回り、ネズミの数を危険値以下に減らしたのである。この偉業に似た事は、人間が”病原体”という物の存在を発見する遙か昔から、まさに人知れず行われていた筈である。ネコを人間社会に組み込んだ事で、一体どの位の人間が死を免れたのか想像も付かない。それもこれもネコが人間に馴れる性質にコーディネイトされていたおかげである。
ヤマネコの一種を飼い慣らし、選別し、現在のイエネコの形にしたのは間違いなく人間の仕業である。ネコは人間社会にフィット出来る特性を優遇した結果生まれた”人間用の亜種”であり、生まれた時から人間の方を向く事を決定付けられている動物と言っても良い。今なら猫に頼らずにネズミを駆除したり、伝染病を封じ込めたりする事も(それでも新しい病原体に対抗する為に保険の意味でも生物の多様性は維持しておいた方が良いとは思うが)出来るだろう。けれども彼らに対しての”借り”は厳然と在り、しかも彼らは”人と暮らす為に淘汰され、運搬されてきた種”なのである。
猫が街中にいるのは他でも無い我々が望んだシステムだった筈であり、そのおかげで我々の先祖の誰かが死なずに済んだ事があったかも知れない、ネコが居なければ自分は今ここに存在していなかったかも知れないのである。この何千年かは、人間社会と言えばそれはネコが居る社会を指してきたのだから、都市化したので邪魔になったと言うのは、余りに短絡的かつ恩知らずな行為ではないだろうか。
別に可愛がってくれとか餌をやってくれとは言わないが(そういう層も淘汰圧の調整に必要だろう)彼らがもたらしてくれた恩恵と、この先また彼らが必要になる事態が起こる可能性を考えた上で、”彼らから被る迷惑”を語ってくれと思っているのである。