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ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序(嘘と沈黙)

作成年月日
2007年09月08日 00:08

今日「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・序」を観て来た。もう劇場に足を運んで映画を観るのはやめようと思っていたのにあまりに評判が良いので近場で上映されるのをいい口実に、我慢出来ずに行って来たのである。”REBUILD”と銘打たれたこのリメイク版は当時の素材をベースにディテールアップ、描き直しを行っているので、旧作通りのシーンでは旧作通りのレイアウトやタイミングで画面が動く。嫌になる程見返して記憶の中に定着した様々なカットが、まったく同様のエッセンスを保持したまま再現されるのだそうだ。

この「新劇場版制作」の報を受けた時、俺は諸手を上げて歓迎した。少し前にテレビ版を観る機会があったのだが、今見ると色々な部分が古く感じられて正直観ていられなかったのである。前回の劇場版でもテレビ放映部分を再編集して上映されたパートがあるが、尺が短い上に変則的な構成でとてもテレビ版の面白さを十二分に伝えられる物ではなかった。劇場版の新作部分(25、26話)が俺は大層気に入っていたので、今回のリメイクでテレビの1〜24話部分が”今観られるクオリティ”で蘇るのであれば、今回の結末が気に入らなかったとしても新劇場版(1〜24話部分)+旧劇場版(25〜26話部分)を繋げて「俺にとっての理想のエヴァンゲリオン」は手に入るという目論見があったわけだ。

上映が始まるとなるほどこれは上手い作戦だと思った。そこにあるのは記憶の中の”美化されたテレビ版”である。今作るならもっと別のシークエンスもあるだろうと思わなくも無かったが、あの頃夢中になったエヴァンゲリオンがグレードアップした映像でスクリーンを彩る。これなら旧テレビ版と完全に置換え可能である。「序」のクライマックスである「ヤシマ作戦」も敵使徒のコンセプトをより明確に、そして大胆に変更しているが根本的な部分は変わらない。近づけないので遠くから撃っちゃえという作戦のままである。

途中途中に些細な変更はあるものの、ストーリーやセリフは殆どテレビ版を踏襲しており、新しい物を観ている気がまったくしない。劇場の中だけタイムスリップしたかの様な不思議な体験であった。もしこれをテレビ版の映像をそのまま使われていたらこうはならなかっただろう。ただ「あー、やっぱり昔のアニメだなぁ」と思うだけである。そしてもし一から作り直されていたらそれはそれで楽しみなのだが、それだと前の「エヴァンゲリオン」はなんだったんだという事になってしまう。新しい物は見たいけど旧作を否定する様な事はして欲しくない。そう考えると、この”REBUILD”という手法はまったく上手い作戦だと思わざるを得ない。何より俺の欲しかった「素材」がこんなにも見事に提供されている事に嬉しくなっていたのだ。そう、ヤシマ作戦が終わる所までは。

……そういう事だったんですか!!!

やーらーれーたー。なんて事しやがるんだこのやろう。こんな大事な事を黙ったままよくいけしゃあしゃあと劇場公開出来たな。どんだけ自制心が強いんだお前達は。

劇場を出た時からもうずっと笑いが止まらない。なるほどこの「新劇場版・序」が旧作を見ていない人間の評判が芳しくないのも尤もだ。話がトントン拍子に進むので初見の人には感情移入する暇もない。元々のテレビシリーズ自体主人公がロボットに乗る決意をする所が唐突過ぎて、良く出来たシークエンスでは無いのだ。見た事も聞いた事も無いロボットに乗って敵と戦って来いと言われて、一旦は断るものの瀕死の少女が替わりにロボットに乗ろうとするのを目の当たりにして「僕が乗ります」と心変わりするくだりはあまりに現実離れしていて「おいおい、君は断っていいんじゃないか?」と思わずには居られなかった位である。ロボットに乗れる人間は先天的な素質(実は境遇)による為他の人間では起動すら出来ない、という事実を詳細に説明される前なら、「え?ここは軍隊な訳でしょう?訓練されたパイロットが乗るべきなのでは?ていうか、なんで子供を乗せようと思うのさ」と言っていい場面である。そこがさらにワンクッション省かれて描かれるのだから「うわぁ」と思うだろう。戦時下の混乱の中で生き残る為にモビルスーツに乗り込むガンダムに較べて、このエヴァンゲリオンの主人公が初めてロボットに乗り込むシーンは「選択肢の無さ」が足りない。

しかしそのテレビ版の瑕疵すらもこれを見た後なら納得がいく。あぁ、そりゃあ乗るだろうよ。乗っちゃうでしょう、戦っちゃうでしょう。次から次に出てくる化け物を「怖い怖い」と言いながら、勝ち続けてしまうでしょう。

”REBUILD”というのは焼き直しだと思っていたがこれは「やり直し」なのである。より強固に、より精密に描かれた第三新東京市、恐怖感を圧倒的に増したラミエルを始め、全てのカット、音響、シナリオが”あの時には出来なかった事が今ならこうやれる”という希望と喜びに満ち溢れている。そしてこの「新劇場版」は旧作を否定しない。あの頃はあの程度のものしか作れなかったけど、あれはあれで精一杯だった。今はこの位出来るけど、あの時はあれが限界だったんだと、正直に告白するのである。旧テレビ版をハイクオリティな映像に置き換えて「無かった事にする」という俺の目論見は潰えてしまった訳だが、それはもう些細な事である。











追記(ネタバレあり)











劇場に足を運んだ事でそれまで封印していた他サイトの感想や考察を見てみると、だいたい皆俺と同じ様な解釈をしたようだ。つまり「エヴァンゲリオン」はループ物である、という事である。ループ物というのは時間的、或いは因果的に殆ど同じ事が繰り返され、登場人物はほとんどの場合その自覚もなく同じ様な出来事を何度も繰り返させられる。そしてその中である者がその事に気付き、なんとか閉じた円環から抜け出そう、この運命を変えてみようとする物語の総称である。

このループ物というのが俺は大好きで、マイナーな映画では「恋はデジャブ」、最近ヒットしたゲームの「ひぐらしがなく頃に」等もこれに含まれる。アニメ版「時をかける少女」もループ物と言って良いだろう。KIDが遺した「infinity」シリーズも忘れられない。世界に欺かれながら、何度もバッドエンドを迎えつつ、それでも決して未来を諦めない、運命を変える為に戦い続けるこのパターンは、それが周到に用意されたものであればあるほど、世界の因果が繰り返されている事に気付いた時の驚きが大きい。

今回の「ヱヴァンゲリヲン」ではそれが恐ろしい程周到に隠蔽され、また最後の最後でそれを示唆するセリフがある人物によって語られる。それまで「エヴァンゲリオン」の焼き直しの振りをしておきながら、実はそこに居るシンジやレイ、サキエルやシャムシェルやラミエルは我々が知っている彼らではない。「誰も見たことの無いエヴァ」というのはまったくもってその通りなのだ。

登場人物たちの行動が微妙に前回と違う。使徒たちの容姿、能力が微妙に違う。それらを途中までは「尺に収める為、或いは折角の劇場版だから」という理由で行われたと思っていたのに、このセリフが出た瞬間電撃に撃たれた様にピースが別の形に組み上がる。ループ物においては繰り返しは同じ様に見えてまったく同じではない。例え僅かであっても変化し続ける事で運命を変えようとするのがループ物である。だからタイトルも「エヴァンゲリオン」ではなく「ヱヴァンゲリヲン」なのだ。同じように見えて細部が異なっているのである。

この劇場版に対して

といった不満があるようだが、それらは「旧エヴァ」と「新ヱヴァ」をひっくるめたこの「エヴァンゲリオン」という物語がループ物であった場合、まったくもって仕方がない。2度目以降話がポンポン進むのはループ物の定石であるし、初めて観たらと思っているのは、実は「途中から観て」しまっているのである。旧テレビシリーズ、旧劇場版、そしてこの新劇場版と全部をひっくるめて一つの話なので、順を追って観ないと意味が分からない。殆どテレビ版と同じというのは勿論そうなっていなければループ物と呼べないからである。

前回我々が目にした「エヴァンゲリオン」が何周目の世界だったのか分からないが、少なくともそれ以前にも彼らは同じような事を繰り返してきたと思いたい。シンジが第三新東京市に呼ばれ、レイと出会い、エヴァに乗って使徒と戦う。それを何度も繰り返してきたからこそ、前回も、そして今回も、彼は初めて訪れた街で、まだあった事もないレイの幻影を路上に観るのである。実はこのシーンがずうっと腑に落ちなかったのだが、もしこれがループ物で、あの幻影が彼の記憶だったとすると、とてもスッキリ繋がるのである。

ここまでループ物に断定して話を進めてきたが、それも引っ掛けの可能性はある。あまりに種明かしが素直すぎてちょっと疑心暗鬼になってしまうのだが、それでも俺はこの話がループ物だったらいいな、と思っている。リメイクだと思っていたら続編だったなんて、なかなか体験できる事ではないだろう。