タイトルの言葉は文書をhtmlで記述しサーバーに保存しておく事の意義として以前書いたものだ。明日か、30年後か、はたまた永遠に現れないか、それは書く者には知る術も無いが、いつか誰かの役に立つ可能性が「ゼロでは無い」という事が、俺がhtmlに感じる最大のロマンである。もちろんそれはhtmlが提供するものではなく、各種検索エンジンが稼動してくれるからこそなのだが、兎にも角にもこの数十年で地上に蓄積された文書の量はおそらく爆発的に増加している事だろう。
例えどんなに下らなくても、どんなにマニアックな事でも、あるいは凡庸な事でも、サーバーに保管しておけば、いつか誰かがその文書に辿りつくかも知れない。辿り着かなくても問題は無い。ただ、「準備がされている」という事が美しいのだと感じる。
書く側にとってはただのストレス発散だったり自己表現の一つだったり、サービス精神の表れだったりするかも知れないが、サーバーに上がっている間は、それらの文書は「いつか誰かの役に立つかも知れない」という可能性をほぼ強制的に付与される。それがどんな内容の文書であろうと、いつか訪れる誰かにとって有用なものには成り得ない、という証明は出来ないだろう。そんなつもりは毛頭無くても、世界は自動的に準備を続けている。誰かの疑問に答える正解や不正解を、膨大なパターンと量で蓄積し続けている。
パソコンで困った時、思い出せない名前があった時、もう当たり前の様にネットを検索し様々な文書を参照するようになっていると思うが、それは全て誰かが前以って準備してくれていた文書である。あなたがその事を調べようと思う前に、すでに誰かがそれに対応する文書を残しておいてくれたなんて、まるで手品の様に不思議な事ではないだろうか。
だから、色々書き散らかして来たがそろそろその準備に戻ろうと思う。どんなに下らない事でも、それは準備されていなくてはいけない。囲いの中ではなく、誰の手でも届く場所に保管されていなくては、俺にとっても、いつか訪れる誰かにとっても、意味が無い。