「闘争本能を考える」の続き。
まずここで言う「闘争本能」とは「戦いを求める衝動」「戦いに身を投じたいという生来的な願望」である、と定義する。さらに複雑な人間社会では「闘争」というものが広い意味で使われ、会社で出世する事に腐心する事も闘争と呼ばれたりするが、まずは生物としての闘争、比喩ではない「戦い」を好む本能として定義する。
前回の日記の要点は人間は進化の過程で常に弱者であり、戦いを好むような本能を持ち合わせていては生き残れなかった筈だから、そのような特性が育まれる筈がない。闘争本能などというものがあったとしたら、一時的な繁栄は可能でも、長期的なメリットは生まれないのではないか、というもの。では今まで「闘争本能」と呼んでいたものの正体はなんだろう、という事を今回考えてみたい。
本能(厳密に言えば本能行動か?)は目的を意識せずに行う事を言うのであるから、「食料の為」とか「仲間の尊敬を集める為」というような戦闘は「闘争本能」に拠るものではない。闘争本能を何の理由もなく行使してしまうと体裁が悪いので「〜の為」と称して戦闘を行っていると考える事も出来るが、それならモラルが発生する前は戦闘し放題だった筈で、そうなると前回提示したモデルと矛盾する。モデルが間違っているか、闘争本能が「本能」では無いか、ということになる。本来の意味で闘争を行えば賭ける物は自分の肉体と命なのだから、それ以上の見返りがなければおいそれと行えるものではない。
が、もうひとつ、逆の可能性がある。賭ける物が自分の肉体と命でなければ、見返りを期待していい。
(続く)