まずこの本に気付かされた事の中で一番大きな物は「音響情報」という概念である。耳に聞こえる音楽は常に2つの情報を持つ。「音韻情報」と「音響情報」である。音韻情報と言うのは音楽のストラクチャーを示すもので、音程や音価など、どう演奏すればその曲になるか、という情報の事を指す。具体的に言えば楽譜やMIDIデータなどがそれに該当するだろう。目に見えて記述していなくてもある曲を聞いていて「今のコード進行はカッコよかった」と感心した時は、それはその曲の「音韻情報」を汲み取ってそれに感心しているという事になる。対して音響情報というのは音の聞こえ方。大聖堂の響き具合などの音響物理情報や、あるいは楽器の出す固有の音(同じギターであってもモデルや個体差によって音色は違ってくる)等が該当する。あるいはサウンドのボリュームもそれに含まれるだろう。(各音符の相対的な音の大きさは楽譜などに音韻情報として指定されているが、その曲をどれ位の音量で聴くかは指定されていない)
音楽を記述するものが音韻情報で、音楽がどう聞こえるかというのが音響情報と要約してもいいかもしれない。CDに入っているある曲をカーステレオで聴いたとする。次の日同じ曲を家のコンポで聞く。次の日にはオーチャードホールに出かけて本人の演奏を生で聴いたとする。3回とも曲の「音韻情報」は全く同一である。(生演奏の際、演奏者がアレンジを変えていなければ、の話だが)それに対して「音響情報」の方は一度として同じ物はない。再生装置や周りの環境が変われば音響情報もそれに付随して変化する。音韻情報が独立して永続性を獲得しているのに対して、音響情報の方は再現性が低く、一度きりの経験に終わる事が殆どである。
で、ここからが本題であるが、この音韻情報と音響情報の関係が近代になって急速に変化したのである。楽譜を記してそれを印刷し配布出来る様になったり、演奏を録音して色々な再生装置で聴けるようになったおかげで、曲の音韻情報「だけ」を取り出して再利用できるようになった。その結果音響情報の重要性が一時損なわれまくったわけだ。我々はそれが当たり前の時代に生まれたが、それより遙かに長い時間、音楽はほぼ一過性のものだったのである。音楽を体験しようと思えば特別な場所に出かけなければならず、そこで演奏される曲は口伝で継承されていくような記号化以前の代物で、楽譜という概念も乏しく音韻情報は耳に聞こえる音響情報といつも同時にしか味わえない。
録音出来ない、記号化(採譜)出来ない、それが当たり前の時代には「音響」と「音韻」は不可分の物として捉えられていただろう。「音韻情報の抽出」が音楽の大衆化を強力に推進したわけである。そして音楽の仕組み、コード進行や調性、旋律について学ぶという事は、取りも直さず「音韻情報」を学ぶという事である。自分自身も十二平均律の醍醐味と言えば、やはりシステマティックなストラクチャーの構築だと考えてきた。機能的なコード進行、華麗な転調、それらは全て音韻情報に基づいた音楽を音楽たらしめる根幹の部分と認識し続けてきたのである。楽譜の中には例えその曲が一度も演奏される事が無かったとしても、その曲の本質が記されている。言い換えれば楽譜に起こし、それを別の楽器で演奏しても曲の良さが損なわれない物が、普遍的な名曲であると思っていた。よって最近の商業音楽シーンを席巻している「ヒップホップ」や、下火になりつつある「トランス」等のいわゆるクラブでかかっている様な音楽は全て、自分にとっては「音韻的に幼稚な、聴く気の起きない音楽」と位置づけられていたのである。ピアノで演奏した時に同じキーを叩き続けてすぐに退屈してしまう様な曲に用は無かったのだ。
しかし近代以前の、まだ音韻情報を汎用的に抽出する事が出来なかった時代、言い換えれば調性という概念がまだ存在しなかった時代の音楽は、まさにこの様なものだったらしい。たった一つの音をゆっくりと皆でユニゾンして終わり、すこし唸って今度はまた違う(前のより少し高い音)を皆でユニゾンして終わったという、仏教の声明の様な感じだったようだ。このような様式においては、音響が良くなければ効果は無かっただろうと推測される。大人数であったり、エコーが良くかかる洞窟や大聖堂で行ったりして、音響情報のパワーで人々を陶酔させていたのではないか。もしこれを一台のピアノや縦笛でやってもつまらないと思われる。(それがたまらん、という人も居るかも知れないが)
その辺の、中世から前近代辺りまでの音楽の在り方、受け取り方に思いを馳せると、クラブでガンガン大音量で単調なコード進行の音楽をノンストップで鳴らし続けたり、或いはトランスでコード進行と関係なくサイレンの音が鳴り響いたりというアプローチは、肥大化した音韻情報に頼らず、音響情報によって音楽を再定義しようとする試みとも思えてくる。音韻情報を見れば退化して行ってんじゃねぇのかと思えたジャンルの音楽が、音響情報にフォーカスした事で立派なカウンターカルチャーに思えてきたのである。
一度音響情報を積極的に音楽に取り込もうと思えば色々な夢想が生まれる。コード進行において終止形とはX→TやX→Y、或いはW→Tなどのある機能和声に基づいた解決によってもたらされるのが通例だが、音響上の終止感という事を考えれば、良くあるフェードアウト(演奏はサビの部分等を繰り返しているのだが、ボリュームが段々小さくなって行って最後には消えるやり方)等は音響情報を使った終止形と言う事も出来る。「曲を終わらせるにはX度の和音からT度の和音に解決する方法と、ボリュームをちょっとずつ小さくしていく方法があります」と音楽の理論書に記す事も可能なのだ。
1音だけを鳴らしっぱなしにしてそれのエフェクトやボリュームを操作するだけの曲も(勿論こんな事はどこかのマニアックな音楽家がとっくにやっているだろうが)音響的なアプローチに偏っているものの、間違いなく「音楽」と定義する事が出来る。そう思えるようになった事は個人的にはとても大きなエポックメイキングであった。
音韻情報が溢れる時代に生まれ、音韻情報の真髄と言うような入り口から音楽の世界に入って右往左往してきたが、「音響情報の操作によるアプローチ」という、未開拓の陸地がまだこんなにも残っていたのかと気付いて、ちょっとクラクラしているのである。