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フィルムにおける第三者の距離

作成年月日
2005年05月06日 21:35

「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム」で最高に涙腺を刺激する場面といえば、主人公サイドのデジモン達が予想外に強力な敵に対抗する為パワーアップ形態に進化する場面だろう。画面はCGによるデジモンたちの変形シーン「では無く」、その戦いをパソコンのモニターを通して見守る世界中の子供たちを捉えていく。

カメラは主題曲の前奏に同期してテンポ良く世界中の”視聴者”を捉えていく。主役デジモン2体の”進化(変身)シーン”という子供たちのお目当てをモニタの中に押し込んでまで、それを食い入るように見つめる側を映す判断には舌を巻く。

あるいは「アルティメットガール」の最終回、主人公が自身の命と引き換えに、敵の怪獣に取り込まれた先輩を取り戻そうと出撃する場面。巨大ヒロインに変身する彼女が足元から実体化して行く途中、その姿を捉えようと一斉にその先を追う報道陣のカメラのレンズが一瞬インサートされる。

足元から徐々に姿を表す主人公を追うオーディエンスの全てが”カメラ”と共に描かれる。お祭り騒ぎ的な狂騒と主人公までの距離が遠い事を一発で分からせる小道具として、このガジェットの効果は重要である。

こういう、戦いが盛り上がるところで「敵」でも「味方」でもなく、「第三者」の姿が捉えられた瞬間、世界の見晴らしが良くなるというか、その戦いの孤独さが一瞬「ふぅっ」と和らぐ感じがたまらないのだ。

そしてここからが本題だが、この「第三者」のポジションは、物凄くデリケートに設定されなければ意味が無いように思われる。例えばジャンプお得意のトーナメント漫画などは、味方のチームメイトや前の戦いで負かした相手チーム、さらにヒートアップする観客など、主人公達の戦いに注目している「第三者」で溢れ返っているが、この場合前述した効果はまるで発生していない。彼らはその気になれば戦いに割って入れる場所にいる「潜在的な参加者」だからだ。

では第三者を主人公から遠く離せばいいのだろうか。主人公が血みどろで戦っているのをテレビの前でビール片手に観戦しているお父さんを映したとしても、やはり意図した物とは別のシーンになるだろう。このお父さんには距離的にも精神的にも参加する資格が無い。

「デジモン」の子供たちは、パソコンのモニター越しという、「参加することを許されない」傍観者でありながら、「インターネット」という、アクセスしなければ観られないデバイスを付与された事で、「離れてはいるが精神的な参加者」たり得た。

一方の「アルティメットガール」では、主人公の姿を捉えるべく一斉に上を向く望遠レンズを描く事で、主人公の登場を待ち焦がれていた心の在り様と、その距離が望遠レンズを使わなくてはならない程遠いという事実を、一瞬で描き出した。

「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム」も「アルティメットガール」も、世界的な大事件であるにも係らずその事実が一部にしか伝播していなかったり、コメディの体裁によりシリアスさが失われていたりする2層化された物語である。子供たちが必死になって世界を救うために奮闘している横で、母親がケーキを作っていたり、連絡が付かなかった仲間が入試を受けていたりと、その多層化された視点でギャップを描き出した「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム」ほど顕著ではないが、「アルティメットガール」の方も毎週お祭り騒ぎの様に怪獣が出現し、それと戦うヒロイン達をテレビ番組が持ち上げている裏で、この主人公は怪獣のコアになってしまった憧れの先輩の命を助ける為に、自分の命を差し出しに出てきた所なのだ。

動機の切迫度に違いはあるが、この2作で描かれるオーディエンスは同じ立場にある。

主人公達を助けたいと願い、主人公達の戦いを見守れるほど近く、しかし手助けは出来ない程、絶望的に遠い。

パソコンのモニタや望遠レンズというアイテムによって設定されたこの絶妙な距離感こそが、この演出を成功させる鍵なのでは無いだろうか。