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星の鼓動は愛(タイトルに偽りあり)

作成年月日
2006年03月12日 00:19

今日立川まで出かけて劇場版ZガンダムV「星の鼓動は愛」を観て来た。ネタバレなしで臨もうと思っていたがそんな余裕は消し飛んでしまった。

なので余計な先入観を避けたい人は今すぐこのページを閉じて欲しい。

では始める。

第一部が「星を継ぐ者」第二部が「恋人たち」。そしてこの第三部が冠したタイトルは「星の鼓動は愛」というなんだか良く分からない日本語だがこれは偽りである。第三部のタイトルは「機動戦士Zガンダム 〜ケツっていいな〜」が正しい。ケツとはつまり尻の事だ。ヒップとも言う。もう少し正確に言うと「やっぱり女の尻はいいですよね」になる。この作品のテーマを明確に伝えるならこのタイトルしかない。

富野監督が性をおおらかに描く事に執着し始めたのは何時ぐらいからだっただろう。覚えている所では「ブレンパワード」のオープニング辺りからそのような挑戦を始めていたように思う。あの時は「男性の勝手な願望を盛り込んだ性欲誘発装置の様なヌードではなく、プレーンな眼で描かれた女体の美しさ」を表現しようとしてヒロインオールヌードのオープニングが完成したのだと記憶、解釈している。

その後「ターンエーガンダム」でさらにその視点を推し進め、「土着の文化に付随するプリミティブな性」の表現がなされた。この頃からとかく二極化、細分化が進んだ現代の性文化に対してカウンターの如く、身近でオープンな性に対する肯定の様な発言が氏の口から発せられる様になったと記憶している。

実際このセンスを獲得した事で氏のフィルムは以前と違う手触りを持つようになり、ともすれば観念的な罵り合いに終始しそうな登場人物たちに肉感的なリアリティを与える事に成功したように思う。(それ以前は「食事」や「睡眠」のシーンがその役を担ってはいたが)この手触りのおかげでテレビ版「ターンエーガンダム」は巨大モビルスーツのインパクトと田舎暮らしの人たちのリアリティが同居する出色の作品になったと思っている。

しかし、それはあくまでキャラクターにリアリティを付与する為の手段に留めておくべきだったのではないか。この劇場版Zガンダムでも再三指摘して来たように登場人物のスキンシップが増えた事で話がスムーズに展開し、感情移入しやすくなるという功績があった事は紛れも無い事実である。しかし、それは物語のバックボーンというか前提の組み換えであって、結論ではなかった筈だ。元々この物語はそういう風に出来ていない。ひょんな事からモビルスーツを強奪して両親を殺されデートした女の子は死んでしまい、さらに戦局は拡大して味方が次々と死んでいく中、少年は何を見たのかと聞かれて「あぁ、やっぱり女のケツはいいなぁ」では話が通じないのである。

これがアムロでやるのならまだ話は判るのだ。死んでしまったララァの存在に囚われ続け自ら飛ぶ事を諦めて来た「Zガンダム」のアムロが、ベルトーチカでは力不足だがとにかく色々あって「あぁ、やっぱり実際に触れられる身体あってこその『人』なのだな」と納得してくれれば「逆襲のシャア」で宇宙に上がってチェーンと仲良くやっているアムロにスッキリ繋げるのである。それならこの結論に持って来ても全然問題無かった。というか是非観たかったとすら言える。

しかしカミーユは違うだろう?あんたこの劇場版では最初っから女の子に積極的でいつでもおおらかに振舞ってただろう?フォウが死んでもそれはそれとしてファにキスしようと出来る位にまっすぐだったではないか。このセンスは通奏低音の様に物語を通じて常に語られていたのだからそれを落とし所に持って来られても驚きも何も生まれない。

確かに描き直されたラストに違和感はない。劇場版のカミーユならああなって当然である。それが余りに当たり前の結果であるが故に彼にとっても観客にとってもエポックメイキングでも何でも無い。石を上に放り投げてそれが地面に落ちて来たとしてそこに一体何のドラマがあるのだ。投げた石が落ちて来なかったり別の物が落ちて来たりするのがドラマだろう?

第二部で影を潜めた大胆なカッティングが第三部では遺憾なく発揮され物語の収束感は(説明不足の部分があるとは言え)申し分なかった。不必要な所をことごとく切り、話をシンプルに見せた腕前には脱帽する。けれどもラストとそれまで積み上げてきた物が見事に剥離している。シロッコもハマーンも「セックスの気持ち良さ」を伝える為に敵役をやって来たのではないのだから、そこに着地出来る筈が無いではないか……。

女の子に触るのが気持ちいい事なんか言われんでも知っとる。それを知らん人間の為に映画を作るのであればMSもシロッコもハマーンも要らん。というかそんな話では伝わらん。その結論に辿り着くのなら必要な手続きを踏んでくれ。

当初から自己を保つセンスを身に付けていたカミーユなのだから最期にはもっと高い所に行けた筈なのだ。広がる戦禍と幾人もの犠牲がこいつに「やっぱり女の尻はいい」と再確認させる為だけのものだったなんて、そんなストーリーテリングは許されないと思うんだが、俺の期待が大きすぎたのか?せめてこれがサラの身に起きた事ならドラマとして成立すると思うんだが(この劇場版においてもサラだけはそのセンスを付与されていなかった。エマは劇的に改善されていたしレコアは元々それを充足させたかったのに与えられなかっただけである)

そんなわけでこの劇場版Zガンダム三部作は自分にとっては惨敗である。だが数ヵ月後にDVDで見直したら別の見方が出来るかも知れない。或いは数年後、数十年後には別の感想を得るかも知れない。しかしここはあえて率直に思いのたけを書き殴ってみた。これが嘘偽りの無い現時点でのインプレッションである。